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蒙求

 中3生の模試の練習をしていたら、国語に次のような漢文が出題されていた。

書き下し文
「趙簡子に臣有り、周舎と曰う。直諫を好む。周舎死し、(それ以来)簡子、朝に聴く毎に常に悦ばず。大夫、辠を請う。簡子曰く、「大夫罪無し。吾聞く、千羊の皮も、一の狐の腋(エキ、狐の腋の下の純白の毛)に如かず、と。諸大夫朝し、徒だ唯唯を聞き、周舎の鄂鄂(諤諤と同じ、是非を直言すること)を聞かず。是を以て憂うるなり」

現代語訳
「趙簡子に一人の臣下がいた。(名を)周舎といった。遠慮なく(趙簡子を)いさめることを好む人物であった。周舎が死んだ。(それ以降)簡子は朝廷で政治について聴くたびにいつもおもしろくなさそうであった。官位のある者が(自分たちにいたらない点があるのではないかと思い、)罰せられることを願った。簡子が言うことには、「お前たちには罪はない。私は聞いたことがある、『千頭の羊の皮の価値は、一匹の狐の腋の皮には及ばない』と。大勢の官位ある者が朝廷にやってきても、ただ単に人の意見に従うことばを聞くだけである。周舎のような遠慮のないことばを聞くことはない。そういうわけで、つらく思うのである」と」

 出典は『蒙求』。これは、746年に唐の李瀚という人が編纂した故事集で、中国の有名人のエピソード集のようなもの。日本でも、平安朝時代には「勧学院の雀は蒙求をさえずる」とまでいわれたほどで、その後も非常によく読まれ、戦前くらいまでは一般の人々にもわりとポピュラーだったそうだが、今では漢文の問題としてしか読まれることはないかもしれない。
 
 人は誰しも自分が他人からどう思われているかは気になるものだろうが、不評は聞きたくないものだ。特に権力者という者は、自らの意見に賛同する者を重用し、諫言を挟む者を疎んじる傾向にある。イエスマンを側近に置いておき、申し訳程度に他人の意見を聞くふりをする者が多いのは、歴史を振り返るまでもないだろう。勿論そんなことを続けていれば遅かれ早かれ権力の座から滑り落ちてしまうのだが、全能感に満たされた絶頂期には他者の意向を忖度しようなどとはこれっぽっちも思わないだろうから、どうしようもない。
 その点、この逸話の中の趙簡子という権力者は優れている。諫言を素直に聞き入れようとしているからだ。
 「諫言耳に逆らう」
という俚諺があるが、権力を志向する者にとって、常に心に刻んでおく言葉であろう。

 今の日本には、『蒙求』など読んだこともない政治家ばかりであろうが、自分の選挙のことばかりを心配していないで、こうした「子供に歴史の故事を記憶させる目的で作られたものである」書を紐解くくらいの心の余裕を持っていてほしい。
 今一番、こう直言したいのは、あの男にであるが・・。
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