じゅくせんのつぶやき

日々の生活の中で感じた事をつぶやきます。

教育の限界?

2006-06-27 13:26:59 | 教育
★ 毎日嫌なニュースが続いている。報道ステーションの古館さんが暗くなっていく気分もわかる。異常なことだからニュースになるのだから、致し方ない面もあるけれど。(今じゃあ、自殺や軽微な交通事故ではニュースにならない。)最近ニュースを見ると気が重くなる。

★ ワイドショーや週刊誌は、秋田の男児殺害事件、奈良の高校生による放火殺人事件、東大阪大学生をめぐる集団暴行殺人事件、そして今朝のセレブ令嬢誘拐事件とネタに事欠かず、フル回転の状態だ。犯罪を犯したのは個々の人間の問題でどれも身勝手極まりない事件だけど、ここまで異常なことが連続すると社会のどこかがおかしくなっていると考えざるをえない。

★ 奈良の放火事件はいわば「エリート」が挫折した形の事件だ。優等生が父親の期待にこたえられず、その劣等感と焦燥。父親から解放されたいという自我の芽生え。金閣寺を炎上させた修行僧の心理状態も似ているのかな。家庭の問題も大きいね。

★ 東大阪大学生の事件は、当初の当事者が予想もしていないような事態にエスカレートしてしまった事件だ。いろいろといきさつはあるようだけど、主犯格の男の存在は大きいね。彼を中心に取り巻きが起こした犯罪だ。この主犯格の男は、定時制高校を中退し職を転々としていたらしい。よくありがちな背景だが、ツッパることでしか劣等感を跳ね返せなかった、存在感を得られなかったのだろう。そんな彼ら、最初は脅す程度で済まそうとしていたのかもしれないが、被害者が強く出たのだろう。それに切れたのではないか。以前、大学院生が暴力団に集団暴行され殺されるといった事件があったが、似てるような気もする。彼ら流の「プライド」が傷つけられたのだ。

★ 子どもじみたツッパリあいで、殺されるほうも殺すほうも一生を棒に振ってしまう。悲劇だね。最近、子どものまま成人してしまったような人物をよく見かける。体だけは発達し、Hだけは一人前にし、中には妊娠出産する(させる)けれど、生活力がないから結局は破綻。

★ 義務教育は9年間。中学の卒業段階で第一のふるいにかけられて(今では親の財力により幼稚園の段階からふるいがかけられているともいえるけど)、あとはご自由にと野に放たれる。昔なら徒弟制度で親方が面倒をみるってこともあったが、今ではほとんど見かけられない。子どもたちも厳しい修行には耐えられない。学校教育は「受験」に重点が置かれているから、飯のタネをどうやって稼ぐかなど教えてくれない。生きるすべを身につけず野に放たれれば、放浪、浮浪するより仕方がなかろう。

★ 学校、家庭、行政機関と責任のなすりあいを繰り返しているけれど、いずれにせよ最近、教育の限界を感じる。
コメント

学校評価

2006-06-17 11:21:19 | 教育
★ 最近、学校評価が注目されている。学校評価自体はそんなに新しい考え方ではないが、近年、学校選択の自由化や学校への市場原理の導入など競争原理が導入されるにつれて、その学校が優れているのかが問われるようになってきた。

★ 学校評価は本来、自らの学校の状況を把握し、それを学校改善への手立てとして行われるものであろう。経営過程をPlan-Do-See(Check)と考えるなら、経営体としてSeeにあたる評価が行われることは当然のことである。ただ、誰が何をどのように評価するのかが非常に曖昧であった。特に企業の営業成績と違って、学校(教職員や子どもたちの営み)によって子どもたちに付加される価値の量や質を数値化することが極めて困難であるといった、「教育」という営み特有の評価の難しさがあった。そもそも単位学校が経営体として成り立っているのかと問われることさえあった。今日では組織として小さく、また単位学校あるいはその長たる校長の権限は極めて限られたものになってるが、組織である以上経営体であるとみなされている。

★ 評価と言うとどうしても、学力テストの結果とか大学への進学者数、ブランド大学への合格者数(合格率)など数字として表しやすいものが取り上げられるが、それはあくまでも一つの尺度に過ぎないし、「教育」という広範な営みから考えれば、そのほんの一端を評価しているに過ぎない。ましてそれが学校の成果なのか生徒個人の努力によるものかも不明瞭である。有名国立大学に数多くの合格者を出す高校といわゆる底辺校で文字通り生徒と日々格闘している高校でどちらが教育力があるかと問われても、それは何を尺度とするかによって評価の分かれるところだろう。学校評価の難しさはそのような点にもある。

★ そうした難しさを認識した上で、数値に一喜一憂せず、学校を改善するために行われる学校評価は必要であろう。学校評価をより戦略的に学校経営診断更には学校経営改善(治療)へと発展させることも必要である。評価をしてもその改善策がないならば、血液検査をして異常ですよと言われて放置されるのと同じで、治療できないのなら気に病むだけの検査などしない方がましだと思える。

★ 評価→診断→改善(治療)といったノウハウを蓄積、標準化すること、そして学校経営改善をアドバイスできる「学校経営診断士」あるいは「学校経営改善士」とも言うべき人材を育成して欲しいものだ。
コメント

大学全入時代

2006-06-17 01:11:28 | 教育
★ 大学募集定員が大学への入学を希望する人数を上回ると言う大学全入時代が間近に迫っている。大学の間では生き残りをかけた壮絶な生徒争奪戦が繰り広げられ、既に「勝ち組」「負け組」が決まりつつある。これからは倒産する大学も珍しくはなくなるだろう。

★ 最近、私立高校が学習塾を対象とした説明会を開く機会が増えた。かつては学習塾など歯牙にもかけなかったような学校まで今では「学習塾様」といった待遇である。この傾向は私立高校に限らず、公立高校にも見られる。公立高校も学区が次第に拡大され、こちらも統廃合されないように特色を出そうと必死な努力が重ねられている。「営業」など考えたこともなく「殿様商売」をされていた先生方が今では学習塾回りをされていたりする。さながら教材屋さんである。学習塾のオーナーとしては祭り上げられたようでこそばさも感じるが、学習塾業界同様、「学校」も競争が激しくなり大変だなぁと同情もする。

★ ところで、大学全入時代と言ってもそれは18歳人口をもとにした数字であろう。日本の場合、大学への進学者は高校を卒業する現役生と卒業後1~2年の浪人生が大部分を占める。アメリカのコミュニティスクールなどでは、年齢にかかわりなく学びたい人が学びたいときに学べる環境があるように聞いたが、日本の大学でも社会人をもっと受け入れるように努力をすればよいのではないか。そのためには入学システムの見直しが必要だろうし、学習意欲のある社会人がもっと気軽に大学に入れるようにしてもらいたいものである。そうすれば国民の学習ニーズも満たされるし、大学も経営的に安定できるのではないか。

★ いずれにしても、時代にそぐわない大学、経営努力をしない大学が淘汰されるのは仕方のないことであろう。ただ大衆に迎合するだけの大学もどうかと思ったりもするけど、大学院が充実してきた今日、大学は大衆化し、かつてのアカデミズムは大学院に委ねればよいのかも知れないね。
コメント

シビリアンコントロール

2006-06-09 18:34:56 | Weblog
★ 中曽根内閣のとき「ロン・ヤス会談」とかで日米同盟という言葉がおおっぴらに語られるようになり、大きなショックを受けたことを覚えている。日本が西側諸国の一員と言うことはわかっていたし、日米安保条約があることも知っていた。しかしその一方で「平和憲法」を旗印に「全方位外交」といった理想をもっていたし、また当時盛り上がっていた「非同盟諸国」の存在にも関心を寄せていた。それがあれよあれよと言う間に、自衛隊は機雷の除去を名目にペルシャ湾まで行くは、PKOの名の下にカンボジアに行くは、と今では自衛隊の海外派兵にあまり抵抗を感じなくなってしまった。慣れとは恐ろしいものである。ましてや「不磨の大典」と言われた憲法が改正されようとしているし、防衛庁が遂に「防衛省」に昇格する運びとなった。

★ 国防といった任に当たる重要な役所が「庁」といった一段低い位置に置かれていたこと自体が異様といえば異様だが、そういう位置づけにあること自体に「歯止め」としての意味があったのだろう。「非核三原則」や防衛予算GNP3%といったこともそうした「歯止め」ではあるが、所詮は政権を握った内閣の方針にすぎない。

★ 今、私達は重大な歴史上の岐路に立っているのだと思う。時代は移り変わり、全く同じ歴史の繰り返しはないであろうが、しかし最近の政治状況、監視社会とでも言うべき社会状況の進行、近隣諸国との関係、日米の軍事機能の一体化。こうした動きを見るときどうも平和への動きとは見えない。緊張感が高まってきているように思える。もちろん日本だけの問題ではないし、中国の巨大化やインドの発展など世界史的な動きも考えなければならない。世界的に不安定になってきているのかも知れない。

★ 先行きは暗いが、たとえ「防衛省」になったとしてもシビリアンコントロールだけは是が非でも守り抜いてもらいたいものである。再び軍部の暴走だけは避けなければならない。
コメント

「学校の挑戦」

2006-06-02 02:55:51 | 教育
★ 東京大学の佐藤学先生が書かれた「学校の挑戦」(小学館)を読んでいる。まさに目からウロコの本である。大学を出てからどちらかといえば、学校経営や教育行政のことを学んできたが、「授業」を通して学校を捉えるという視点を忘れ気味だった。改めて学校は何のためにあるのかと問われれば佐藤先生がおっしゃるように、「一人残らず子ども(生徒)の学ぶ権利を実現し、子ども(生徒)たちが高いレベルの学びに挑戦する機会を提供する」(9ページ)ためにあるのだ。学校経営や教育行政はそのための条件整備に過ぎない。

★ 条件整備はそれとして大切ではあるが、それは「授業」のためにあり、「授業」は1人ひとりの生徒たちのためにある。いや、生徒ばかりではなく授業に参加する教師や親などのためにもなるだろう。

★ 私は大学院の受験に際して「生きることと学ぶことの結合した学校とはいかなるものか」といった課題を掲げていたが、それから20余年、すっかり忘れてしまっていたなぁ。授業研究や教育方法学には今まであまり関心がなかったけれど、ここ10年余りの間に大きく変わってきたようだ。佐藤先生は「静かな革命」として紹介されているけれど、「学びの共同体」の発想とテクニックをうちの塾でも是非実践したいと思った。

★ まずはちょっとした発問。これだけでも大きく変わるなぁ。「わからなかったら隣の人に聞いてみなさい」・・・これはコペルニクス的転回かも知れない。

コメント

メリットペイ

2006-06-01 00:18:45 | 教育
★ NHKの解説番組で教員の給与のことが取り上げられていた。一般公務員よりも優遇されている教員の給料。これに対して財務省などからは見直すべしの声が上がっている。番組では、なぜ教員の給料が優遇されているのか、超過勤務の実態を踏まえてわかりやすく解説していた。そもそも超過勤務の実態も40年前のデータが生きているのを知って驚いた。文科省では教員の勤務実態を改めて調査するそうだが、興味深く見守っていきたい。

★ それにしても教員の勤務実態には大きな個人差がある。これは民間の企業でも同様だが、仕事は「できる人」に益々集まる傾向にある。ただ民間ならその仕事に応じて評価され、給与上の優遇や昇進などが行われるが、教員の世界では他の公務員と同様に平等主義が原則としてある。超過勤務が数十時間もある教員もほとんど超過勤務のない教員も給料の面で差がないのである。建前としては「カネのために教職に就いているのではない」ということだが、長年の行政と組合の対立から勤務評定が有効に行われてこなかったということも背景にある。

★ 昨今、公教育にも市場原理が少し導入され学校間の競争が喚起される中で、教員人事も少しだけ流動化してきた。勤務評定も実現できる(誰がどういう基準で評定するのかなど不明瞭だが)ようになってきた。これに応じてほんの少しだけ給料に差がつくメリットペイが実現される動きになってきた。よく働く教員とあまり働かない教員。指導力に優れた教員と指導力不足の教員。これからは選別され、待遇に差が出てくる。これが刺激となり教育効果が上がれば願ってもないことだが、優れた教育サービスを受けられる生徒とそうでない生徒が生まれることも懸念されるし、「優れた」という意味もなかなか一概にはいえない難しさがある。

★ 市場化は社会の流れなので当面、静観したいが、あまり数値目標ばかりを掲げて、社会保険庁のようにズルをする人がでないように望みたいものだ。
コメント