じゅくせんのつぶやき

日々の生活の中で感じた事をつぶやきます。

教育力とは何だろう。

2006-04-25 12:29:58 | 教育
★ マニュフェストやアカウンタビリティなど横文字の言葉が踊る中、学校経営にも企業なみの数値管理が求められるようになってきた。学校選択の自由化などで公立学校に市場原理が導入され、一方私立学校は少子化の波を受け、生き残りをかけ「企業」努力を進めている。「教育」がサービス産業化する中、数値目標を掲げそれを武器に競合校との差別化を図ると言う意図はわかる。

★ 全国レベルの学力テストが実施されるという。かつては文部省対日教組の戦いの争点となった「学テ」も子どもたちの学力低下が叫ばれる中、今回はあっさり実施されそうである。調査結果は学力格差の実態など重要な基礎データとなるであろう。しかし、数値と言うものは一人歩きを始めるのも常のことであろ。先の「学テ」では都道府県対抗戦の様相を呈し、全国1位をとるために、あるいは近隣県には負けないために成績の悪そうな子を試験当日に欠席させるなど異常な加熱ぶりがあったと伝えられている。学校間の数値となるとよりシビアなものになるであろう。学校選択が自由化の傾向にある今日、消費者(教育を受ける側)の立場から言えば、学校に関する情報は公開されて当然であろう。そして成績の良い学校は進んで公開をするであろう。

★ しかし統計と言うものは成績の良い学校があれば悪い学校があって当然である。なぜ成績が悪いのか、テスト自体が適性であるという前提に立つならば、その成績の悪さを追究する、また成績の良い学校と比較研究し、より良い学校・教育を求めて改善をしていくというのが、調査結果利用の本来の意味であろうが、実際は数値だけが一人歩きをしてしまうのが目に見えている。

★ もう一つの落とし穴は、数値化できないものの軽視である。フィギィアスケートの採点を見るとわかりやすい。フィギィアスケートはかつての主観的な採点から客観的な数値化へと大きく変えられた。不透明な採点を排除しようと言うもので、真に「公平」な審判が難しい現状の中ではやむをえない措置なのかも知れない。その中で採点にはプラスにならない「イナバウアー」を披露し金メダルを獲得した荒川さんのこだわりが素晴らしいと思う。

★ 教育という作業においてはその大部分が数値化できないものである。確かに「読み、書き、算」といった基礎学力の到達度は統計的に表すことはできるかもしれないが、そうした基礎学力であっても1人ひとりの満足度や習得への過程など数値化が難しい要素を多く含んでいる。ましてや道徳性や人間性の分野では数値化は不可能であろう。そして学校教育とはこの領域こそをもっとも得意としなければならないのではないだろうか。

★ インプットとアウトプットの問題もある。もし学校(あるいは教師)の教育力を問うならば、教育の前後で生徒がどのように変容したのかを見極める必要がある。例えば学力についていうなら、大手進学塾のように勉強に適性のある子を集められるかどかが、結局成果を決定してしまうことになりかねない。最近思うのは、名門大学への合格者を多く輩出する高校もよいけれど、いわゆる底辺校で生徒と格闘しながら教育を行っている教師たちの教育力は素晴らしいと思う。教育の成果あるいは実態を数値化するも良いだろうが、数値化できないものの重要性を見逃してはいけない。教育力とは難しいものである。
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勉強アレルギー

2006-04-19 11:10:29 | 教育
★ 花粉症の季節だ。生徒たちの中にも鼻水をズルズルとすすりながら勉強している子が増えた。昨夜テレビでは食物アレルギーの番組をやっていたが、こちらもまた大変なようだ。卵やソバについては前から聞いていたが、最近はじゃがいもや魚介類にもアレルギーを起こす子がいるそうだ。花粉については環境の変化や植物が生存競争に勝とうと花粉をたくさん飛ばしているなど諸説があるし、人間の側でも貧しい国であまりアレルギーの話を聞かないことを思えば、先進国特有の「清潔病」の影響なのだろうか。寄生虫がアレルギーを抑えるといった話も聞いたことがある。人類は寄生虫を初めとしてさまざまな生き物と共生をしてきた。それを「清潔」の名の下に排除したから、その反動が起こっているのかもしれない。食物にしても食べられたくない食材が自己主張をしているのかも知れないね。

★ 社会的にも学校アレルギー、勉強アレルギーの子が増えているように思う。さらに一般的に言えば人間アレルギー、人間関係アレルギーである。学校アレルギーといっても学校で使われている化学物質への過敏症を除けば、なんらかのキッカケによる生徒同士あるいは生徒と教師との人間関係へのアレルギーであろう。症状としては不登校であったり、心身症であったりする。でも、最近は「学校」といった制約された環境そのものに適応できない子もいるかも知れない。

★ 勉強アレルギーとは、特定の教科や全ての教科の学習を受け入れることができない状況のことである。「算数(数学)嫌い」とか「英語嫌い」といったことは日常目にすることである。脳に機能的な障害がない限り、心理的な原因、例えば過去の失敗体験とかプライドの高さから失敗を避けるために初めから取り組まないとか、が考えられる。

★ 最近聞いた話。これはアレルギーの話ではなく、むしろ「ADHD(注意欠陥多動性障害)」、「アスペルガー症候群」「自閉症スペクトラム」といった難しい名前のついている障害に類するものであろうが、うちの生徒が通う高校に1人、自分の世界に閉じこもって質問を繰り返す生徒がいるという。まさに傍若無人で周りのクラスメイトたちはうるさくて勉強しているどころではないという。いわゆる中堅の公立高校に通っているのであるから知能に遅れがあるわけではなく、社会的に適応できない、自分の殻に入ってしまえば周りが見えなくなってしまう症状のようだ。

★ 脳内物質の過剰分泌か、脳の興奮状態が続いているようだ。TPOにあわせた自己抑制ができないのだろう。学校としてもそのうち対応するであろうし、保護者からのクレームも遠からず出るであろう。この例は極端だが、これに近いものは最近比較的多く見かける。現象だけ見れば「自己チュー」「わがまま」に見える。私たちは豊かさ、便利さの中で、生物的にあるいは社会的動物としてひ弱になっているのかも知れない。
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高校の生徒指導

2006-04-18 16:26:14 | 教育
★ 今年高校に入学した生徒が続けざまにやってきて、高校の校則が厳しいと愚痴をこぼして帰っていった。スカートの丈やら服装やら頭髪やら、最近は高校に入学してから規則が厳しいと不満をいう生徒が多い。

★ 本来こうした身だしなみの指導や躾は小学生のうちからしっかりやるべきだ。せめて中学生の時期だろう。しかし、最近は中学校でも指導が甘いし、小学校ではほとんど指導らしきものがない。(家庭での躾は言うに及ばず。)

★ その背景には教師対親の人間関係、あるいは学校対家庭の関係がある。近頃の親は子どもをペットのように扱い、やたらブランドモノで着飾らせたり、髪の毛を染めたり、ピアスを開けたりしている。教師としては苦々しい思いをしながらも、指導することによって起こる親との摩擦やまた指導したところで結局改善されないといったあきらめの中、放置しているのが現状だろう。

★ こうして成長した子どもたちが高校に入りいきなり服装や格好の取締りをされたら、そりゃ「なんでぇ~」というもの無理はない。高校は小中と違って義務教育ではないからその点、教師や学校も強く出られる。さすがの親も高校生の子どもとなると小学生のように口を出すことはないだろう。そんな背景からか、高校生になってから生活指導が厳しくなるようである。

★ ただ、最近の若者がいくら子どもじみてきたとはいえ、高校生ぐらいになると大人を扱うノウハウぐらいは身につけている。その場だけ取り繕い、結局思い通りを通している。

★ 結局のところ、名門私立小学校のように小学校から制服にして、早期から指導をする必要があるのだろうか。学校や教師に今さら権威を取り戻せっていっても無理だろうしなぁ。
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公立塾

2006-04-16 23:45:20 | 教育
★ 経済的な理由で塾に通えない子を対象として「公立塾」ができるそうである。公的セクターによる民業圧迫と言いたい所だけれど、そもそも塾に通えない(基準は不明だけれど)子どもを対象にしているのであれば、民業への影響はあまりないのかな・・・。

★ かつては「塾」といえば学校と対立するような存在で、肩身の狭いこともあった。官尊民卑の風潮がないとも言えず、塾が闇屋のごとく裏街道の職業のような時代もあった。しかし今や第2の学校とも言われ、教師の子どもたちもたくさん塾に通う時代になった。

★ 教師であるがゆえに学校の現実を目の当たりにして、不安があるらしい。

★ ただ問題は塾が高額なことだ。格差社会が指摘される中、学歴も親の経済力に左右される時代になってきた。公立学校の授業だけで十分学力がつけられれば理想だけど、実際そうではないことは自明のことである。多様なニーズをもった到達度のバラバラな生徒が30人~40人のクラスで勉強するのである。昔のように教師に権威があるわけでもなく、荒れる生徒が数名いるだけで、すぐさま学級崩壊の現実である。

★ 親はというと問題のある生徒に限って親にも問題がある場合が多い。教育に対する関心が親にもないものだから、学校としては指導しようにも限界がある。そんな中、経済的な条件にかかわらず、学びたい生徒が学べる条件整備を行うことは意義のあることだろう。

★ ただ実際運営してみるとそう簡単にことが運ばないのは目に見えている。まずどういう条件でふるいわけるのか。親の収入が基準になるのだろうけれど、そうすると「公立塾」に通うのは自ら貧乏人の子どもと宣言しているようなものである。また何をどこまで教えるのだろう。例えば中学受験や高校受験のサポートをするのだろうか。それとも「落ちこぼれ」対策だけなのだろうか。教師はOB教師が当たるというがどのような条件で雇うのだろうか。今の地方財政を考えると限りなくボランティアに近い形になるだろう。

★ 格差社会の是正に向けてなんかやってみようという姿勢はよいが、継続することは難しいだろう。それよりか経済的に貧しい親に教育クーポン券を渡し、それで民間の塾へ通えるようにした方が効果的なのではないか。もちろん退職された先生方が個人やまた仲間が集って塾を開かれ、そこに生徒が教育クーポン券で通っても良いであろう。

★ 文科省は相変わらずなんでも抱えたがるが、市場を広く民間に開放したほうが良いと思うんだけどなぁ。当分静観しようか。
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都会の死角

2006-04-03 11:24:22 | 事件
★ マンションから小学生が投げ落とされ殺害されるという痛ましい事件が起こった。防犯ビデオの公開が功を奏してか、犯人は捕まったが、当初事故とも思われていた事件、またいくつ課題を提示している。

★ まず今回も「入りやすい」「見えにくい」場所で起こったということだ。誰でも立ち入ることのできるマンション、そして高層15階という死角。「犯罪はこの場所で起こる」の著書で有名な小宮信夫さんの指摘どおりの結末となった。

★ 「殺したいから殺した」、こんな歪んだ動機による通り魔的犯罪。これは一種のテロのようなもので、日常安穏に生活している人間にとってこれほど理不尽な犯行はない。しかし、そうしたテロ的なそれも病んでいるとしか思いようのない動機で起こされる犯罪に対して私たちはどのように自ら、そして子どもたちの安全を守ればよいのだろうか。

★ 犯罪防止のために近年防犯カメラが設置されている。確かにこれは犯罪の抑止に一定の効果はあるかもしれないし、また犯人の逮捕には役立つかもしれない。しかし今回のような歪んだ確信犯に対しては決定打とはならないことが実証された。仮に被害者が防犯ブザーなどを持っていても、あるいは作動させてもその効果には疑問がある。

★ やはり「入りやすい」「見えにくい」といった状況を変えていかざるをえないであろう。今後、同種の事件を防ぐにはマンションの管理体制の問題(入りにくくする)、また高層階からの投げ落としを防止する工夫(開放面を狭くするとか、何らかのカバーをするとか)、さらには故意にせよ過失にせよ、たとえ転落しても衝撃を軽くするような工夫(ネットをはるとか、地面に植え込みをつくるとか)ができないだろうか。

★ 耐震強度までが偽装され、コストが徹底的に削られるほど競争の厳しいマンション業界ではあるが、生命安全にかかわることなので、真剣に考えてもらいたい。住民にもお互いに顔見知りになるなどの努力も求められるが、近隣関係が希薄になり、また夫婦共に仕事を持つといった現実の中で、どこまで子どもたちに目が届くかは疑問である。

★ 今回はマンションでの事件であったが、今回のような通り魔的な犯罪は一戸建てでも起こる。例えば、子どもが1人で留守番をしているような家庭も危険であろう。テロ的犯罪を防ぐのは本当に難しい。
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