★ 藤原正彦さんの「国家の品格」の中で紹介された「什の掟」が話題を集めている。
★ 「ならぬことはならぬものです」で結ばれるこの文章。会津藩の藩校「日新館」に学ぶ武士のヒヨコたちが毎日、社訓のように復唱していたそうだ。「三つ子の魂百まで」というが幼少期から武士の心構えを植え付けるということはかなり効果があったものだと思われる。「ならぬことはならぬ」とは強い表現だ。
★ 戦後の悪しき(?)教育を受けた私にとっては、このような掟は為政者、権力者に都合のよいように定めたものだと屁理屈も言いたくなるが、為政者、権力者がもし人格者で哲人政治を実践する信じられていた時代なら納得もいく。だが、上に立つ者が率先垂範しないとただの紙切れだ。今の政治家が「規範」を論じることにさえ疑問をもつ。教師や校長がウソをつく時代である。
★ それはともかくとして、道徳には「ならぬことはならぬ」といった絶対的な立場が必要だ。ふとカントの定言命法と仮言命法について読んでみた。「ならぬことはならぬ」と200年も前にカントさんも言っているじゃないか。
★ 明治より前の「儒教」「武士道」の時代や戦前の「国家神道」の時代はともかく、特に戦後の日本は宗教的なものを規範とすることには極めて慎重だった。「国家神道」への反省もあったし、GHQの占領政策もあったのだろう。今話題の現行の教育基本法でも「宗教に関する寛容な態度」は尊重されつつも、公立学校での宗教教育・活動は厳しく禁じられている。
★ 宗教を基礎とせず道徳を説く。これは非常に難しい問題だと思う。科学的合理主義や公共心などを基礎とするのであろうが、それらは宗教ほど絶対的なものではない。一時期マルクス主義をマルクス教のごとく信奉する人々もいたが、それは「すべてを疑え」と言ったマルクスが意図するところではなかろう。
★ 戦前なら「勅語」という手もあるが、今は無理だ。「愛国心」にしても本来は法律にはなじまない事柄だ。同じく道徳も法律では決められない。「憲章」ではあくまで「宣言」に終わってしまう。
★ 「校訓」を定めている学校も多いが、単なる飾りになっていたり、学校経営者の自己満足になってはいないか。指導者が自ら律するという意味はあるのかもしれないが。
★ 振り返ると「教育勅語」はもちろん、目的は違えども「十七条憲法」「五箇条の御誓文」など日本の歴史にはいくつもこうした文章が登場する。以前文部次官室(?)を訪れたとき壁に森有礼の直筆による「自警」という文章がかかっていた。当時大学院生だった私は本で学んだものを目の当たりにして感動したものだった。「死ぬ覚悟で文部行政に励め」という趣旨のその文章は迫力があったなぁ。(今の時代「死ぬ」はタブーかも知れないけれど・・・)
★ 「なぜ人を殺してはいけないのか」さえ理屈で説明をしなくてはいけない時代。どのような規範を定め、それをどのように根づかせるのか、難しい課題だと思う。
★ 「ならぬことはならぬものです」で結ばれるこの文章。会津藩の藩校「日新館」に学ぶ武士のヒヨコたちが毎日、社訓のように復唱していたそうだ。「三つ子の魂百まで」というが幼少期から武士の心構えを植え付けるということはかなり効果があったものだと思われる。「ならぬことはならぬ」とは強い表現だ。
★ 戦後の悪しき(?)教育を受けた私にとっては、このような掟は為政者、権力者に都合のよいように定めたものだと屁理屈も言いたくなるが、為政者、権力者がもし人格者で哲人政治を実践する信じられていた時代なら納得もいく。だが、上に立つ者が率先垂範しないとただの紙切れだ。今の政治家が「規範」を論じることにさえ疑問をもつ。教師や校長がウソをつく時代である。
★ それはともかくとして、道徳には「ならぬことはならぬ」といった絶対的な立場が必要だ。ふとカントの定言命法と仮言命法について読んでみた。「ならぬことはならぬ」と200年も前にカントさんも言っているじゃないか。
★ 明治より前の「儒教」「武士道」の時代や戦前の「国家神道」の時代はともかく、特に戦後の日本は宗教的なものを規範とすることには極めて慎重だった。「国家神道」への反省もあったし、GHQの占領政策もあったのだろう。今話題の現行の教育基本法でも「宗教に関する寛容な態度」は尊重されつつも、公立学校での宗教教育・活動は厳しく禁じられている。
★ 宗教を基礎とせず道徳を説く。これは非常に難しい問題だと思う。科学的合理主義や公共心などを基礎とするのであろうが、それらは宗教ほど絶対的なものではない。一時期マルクス主義をマルクス教のごとく信奉する人々もいたが、それは「すべてを疑え」と言ったマルクスが意図するところではなかろう。
★ 戦前なら「勅語」という手もあるが、今は無理だ。「愛国心」にしても本来は法律にはなじまない事柄だ。同じく道徳も法律では決められない。「憲章」ではあくまで「宣言」に終わってしまう。
★ 「校訓」を定めている学校も多いが、単なる飾りになっていたり、学校経営者の自己満足になってはいないか。指導者が自ら律するという意味はあるのかもしれないが。
★ 振り返ると「教育勅語」はもちろん、目的は違えども「十七条憲法」「五箇条の御誓文」など日本の歴史にはいくつもこうした文章が登場する。以前文部次官室(?)を訪れたとき壁に森有礼の直筆による「自警」という文章がかかっていた。当時大学院生だった私は本で学んだものを目の当たりにして感動したものだった。「死ぬ覚悟で文部行政に励め」という趣旨のその文章は迫力があったなぁ。(今の時代「死ぬ」はタブーかも知れないけれど・・・)
★ 「なぜ人を殺してはいけないのか」さえ理屈で説明をしなくてはいけない時代。どのような規範を定め、それをどのように根づかせるのか、難しい課題だと思う。