NHK朝ドラ「おひさま」の時代は終戦を迎えました。主人公陽子さんは先生
ですが、わたしは丁度教え子の世代で国民学校5年生でした。
昭和20年8月15日の玉音放送(終戦の詔勅)は、夏休みであり、家にて
聞きました。
(朕ハ時運ノ趨ク所 堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ萬世ノ爲ニ太平
ヲ開カムト欲ス)
この部分だけは覚えました。
2学期が始まりましたが、陽子先生のように「嘘を教えてごめんなさい。」と
言われるでもなく、別に先生のせいではなく軍国教育 だったからと、敗戦
を受け入れました。教科書の中の文字は墨で消しました。大日本帝国は
大と帝を消したのです。当時は教科書と言っても新聞紙のようになっていてはさ
みで切って本の形にしたものでした。
地域には兵舎があり、内地部隊が駐屯していましたが、敗戦と同時に解散
され、それぞれ郷里へと帰っていきました。
我が家は二人の兄の戦死の公報が入り、同時に2柱の葬儀でした。
母は大声で泣くことは無かったですが、しばらくは外に出ることは嫌い
ました。 帰還の姿を見るのが辛かったのでしょう。
長兄(農林省勤め)が応召されている間先生をしていた兄嫁さんも伊勢市
の実家へ帰り、その後先生をしていました。(再婚して晩年は書道の先生を
されていましたが、2~3年前亡くなられたと風の噂で聞きました。)
この兄嫁さんはとても器用な人でわたしの洋服は浴衣や夏の絽の着物
などで作ってくれました。音楽もラジオから流れる歌を五線譜にとり一緒に歌ったものでした。
次兄は満鉄病院に勤めていて看護婦さんの婚約者がいました。葬儀には
喪服持参で来られ(鳥取県)ました。後に東京で日赤の病院の看護婦長をさ
れたそうでした。
共に戦争により運命が変えられた方々でした。
近所でも帰還した人たちの中には時折マラリア熱に罹り、苦しんだり、
戦犯でしば らく公職追放や、シベリア抑留で苦労されたりと口には出さず
とも夫々背負ったものがあったようでした。
「おひさま」でも春樹兄さんは戦死となり、茂樹兄さんは帰ったたけれど
まだ帰ったことに対する罪の意識があるようです。ご主人が帰られ、ドラマの
展開は戦後を迎えるのですが楽しみに見ていくことにします。
戦後66年を迎えますが、戦場でなくなった兵士、内地爆撃、沖縄、広島、
長崎の犠牲の上に平和がもたらされたことは100年経とうが忘れてはいけ
ない史実です。