私の住む地方は柿の産地で、特に美味しい柿が取れます。
その柿畑やミカン畑の奥はすぐ山になっています。
その山は、3月下旬から4月の初めまでは、たくさんの山桜が
山腹から頂上に向かって咲いているのが分かります。
今日は山桜が咲いた山と小雨の中のシャガを紹介致します。
小雨の中、山の中腹から山頂に向かって「山桜が咲いている山」
- 4月1日に撮影 -
裏庭の小雨の中の「シャガ」
私の住む地方は柿の産地で、特に美味しい柿が取れます。
その柿畑やミカン畑の奥はすぐ山になっています。
その山は、3月下旬から4月の初めまでは、たくさんの山桜が
山腹から頂上に向かって咲いているのが分かります。
今日は山桜が咲いた山と小雨の中のシャガを紹介致します。
小雨の中、山の中腹から山頂に向かって「山桜が咲いている山」
- 4月1日に撮影 -
裏庭の小雨の中の「シャガ」
イエス・キリストは、ご自分が捕縛されると弟子たちが散り散りになることを告げる聖書の言葉が成就することを11使徒たちに告げられました。さらに使徒のペテロに「今夜、おんどりが鳴く前に、あなたは三度わたしのことを否認するでしょう」と、予告されました(マタイ26:31~35)。次いで、イエスは間もなく捕縛され贖いの死を遂げること、しかも辱めを受けて死にいたることをご存知のため、11使徒のうちの3人の使徒たち・ペテロ、ヤコブ、ヨハネを連れてオリーブ山の近辺のゲッセマネの園の奥に進んで行かれます。そこでイエスはひどい苦悩を覚え、祈られた場面がマタイの福音書に記されています。それはなぜでしょうか。
「それから、イエスは彼ら(11使徒たち)と共にゲッセマネと呼ばれる所に来て、弟子たちにこう言われた。「わたしがあちらに行って祈りをする間、ここに座っていなさい」。そして、ペテロとゼベダイの二人の子(ヤコブ、ヨハネ)を連れて行かれたが、ご自分は非常に悲しみ、かつひどく苦悩し始められた。それから彼ら(ペテロ、ヤコブ、ヨハネ)にこう言われた。「わたしの魂(命または体全体)は深く憂え悲しみ、死なんばかりです。ここにとどまって、わたしと共にずっと見張っていなさい」。そして少し進んで行き、うつ伏してこう祈られた。「わたしの父(エホバ)よ、もしできることでしたら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。それでも、わたしの望むとおりにではなく、あなたの望まれるとおりに」」(マタイ26:36~39)。
上のマタイの福音書に記されている通り、ゲッセマネの園の奥で、イエスはひどい苦悩を覚え、み父エホバに率直に、しかも熱烈に祈りをささげられました。なぜイエスは「深く憂え悲しみ、死なんばかり」なのでしょうか。死んで贖いとなるという、み父エホバのご意志を撤回して欲しいと願っておられるのでしょうか(マタイ20:28)。
決してそうではありません。イエスはご意志の贖いの死を免れることを求めておられるわけではないのです。かってペテロはイエスに贖いの死を避けるようにと勧めたことがありましたが、イエスにとってそのようなことは考えるだけでもいやなことでした(マタイ16:21~23)。もう少し福音を読めば分かりますが、イエスはむしろ、ご自分が間もなく、敵対する偽りの宗教指導者たちによって捕縛され、彼らの虚偽により卑しむべき犯罪者として死ぬことが、ご自分のみ父エホバのみ名に恥辱となることを憂慮してひどく悲しみ、苦悩しておられるのです。イエスはこの後、数時間のうちに生じる多くの恥辱的な行為を受けることを悟っておられるのです。イエスがひどく苦悩し、うつ伏して熱烈に祈っておられるのはそのためです。
イエスが上の聖句に示されている熱烈な祈りの言葉の中で「この杯」と言われた意味は何のことでしょうか。「この杯」は、み父エホバ神から割り当てられた分、もしくはご自分に対するみ父エホバ神のご意志を表わしています。イエスは、そのご意志を過ぎ去らせてください、と、お気持ちを述べられましたが、しかし、イエスはご自身の望むことではなく「あなた(父エホバ神)の望まれる通りに」と、真剣に祈られています。このように、イエスはどのような場合も謙遜に、ご自身の望みを優先することはありませんでした。死に至るまでみ父エホバ神に従順を示し、み父エホバ神に栄光と賛美を帰しておられます(フィリピ2:5~8も参照)。イエスの苦悩のお気持ちを理解し、感謝される方々は幸いです。
春嵐 雨を伴い 窓を打つ 今日の一句
庭に咲いている「ムスカリ」