先にもお伝え致しましたが、現在社会は「終わりの日の対処しにくい危機の時代」に私たちは住んでいます。そのため人々は自己中心的であり、忠節でない者が多く、裏切る者が後を絶ちません(テモテ第二3:1~5)。こうした世の中であっても、私たちは皆、「神の像(かたち)」に創造されていますので、神エホバの愛の基づく忠節を学び、その比類のない特質を培うことができま。今日は比類のないエホバの忠節について聖書からお伝え致します。
聖書は神エホバについて、「ただあなただけが忠節な方です」と述べています(啓示15:4)。どうしてそのように記されているのでしょうか。人間もみ使いも、注目すべき忠節さを発揮したことがあるのではないでしょうか(ヨブ1:1.啓示4:8)。また、み子イエスはどうでしょうか。イエスは神エホバの「忠節な者」の筆頭ではありませんか(詩編16:10)。そうであれば、神エホバだけが忠節な方である、とどうして言えるのでしょうか。
まず、忠節は愛の一面であることを思い起こしてください。神エホバは、「神は愛である」と記されている通り、その特質をまさしく具現している方ですから、忠節を完璧に発揮する点で神エホバに勝る者がいるでしょうか(ヨハネ第一4:8)。確かに、人間やみ使いも神エホバの特質を反映することができますが、最高度に忠節な方は神エホバだけです。「日を経た方」である神エホバは、天あるいは地上のいかなる被造物よりも長く、愛ある親切を発揮してこられました(ダニエル7:9)。ですから、神エホバは忠節そのものなのです。どんな被造物も及ばない仕方で、この特質を発揮しておられるのです。幾つかの例を挙げてみましょう。
神エホバは「そのすべてのみ業において忠節」です(詩編145:17)。どのようにでしょうか。詩編136編がその問いに答えています。そこには、神エホバの施した救いの業が幾つも列挙されています。その中には、イスラエルに紅海を渡らせた劇的な救出も含まれています。意味深いことに、こ詩の名前は、「愛ある親切(もしくは、忠節)は定めのない時まで及ぶからである」という言葉で区切られています。その各節を読むと、神エホバがいかに多くの方法でご自分の民に愛ある親切(忠節)を示されたかが分かり、感動を覚えずにはいられないでしょう。そうです、神エホバは、助けを求める叫びを聞き、定めのない時に行動を起こすことにより、忠実な僕たちに対する忠節を発揮されるのです(詩編34:6)。僕たちが神エホバへの忠節を保つ限り、その者たちに対する神エホバの忠節な愛が揺らぐことはありません。
さらに神エホバは、ご自分の基準を固守することによっても。僕たちに対する忠節を示されます。単なる気まぐれや感傷に左右されがちな人間とは異なり、神エホバは、何が善で何が悪であるかの見解において揺らぐことがありません。幾千年にもわたり、心霊術、偶像礼拝、泥棒、偽証、殺人、淫行、血を取り入れてはいけない、などに関する神エホバの基準は変わっていません。神エホバはご自分の預言者イザヤを通して、「人の老齢に至るまでもわたし(エホバ)は同じものである」と述べておられます(イザヤ46:4)。ですから、神エホバの言葉に収められている道徳上の明確な指針に従うなら、私たちは永続する益を受ける、と確信することができます(イザヤ48:17,18)。神エホバの言葉は通り道の光です(詩編119:105)。
次回も、引き続き「比類のないエホバの忠節」についてお伝え致します。お読み下されば嬉しく存じます。
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立ち並ぶ こぶし満開 峠道 今日の一句
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法華津峠から西予市に下る道辺の「こぶし」