道辺に遅咲きの淡いピンク系のボケの花が咲いていました。
ボケの花は鮮やかな赤やピンク系が一般的ですが、
白色の花びらのボケもあります。
花期は2月~4月です。
用途は切り花、鉢植え、庭木です。
花言葉は「早熟な人」と紹介されています。
今日は淡いピンク系のボケの花とシクラメン咲き水仙を紹介致します。
道辺に咲いている「ボケの花」
お訪ねした家の鉢植えの「シクラメン咲き水仙」
道辺に遅咲きの淡いピンク系のボケの花が咲いていました。
ボケの花は鮮やかな赤やピンク系が一般的ですが、
白色の花びらのボケもあります。
花期は2月~4月です。
用途は切り花、鉢植え、庭木です。
花言葉は「早熟な人」と紹介されています。
今日は淡いピンク系のボケの花とシクラメン咲き水仙を紹介致します。
道辺に咲いている「ボケの花」
お訪ねした家の鉢植えの「シクラメン咲き水仙」
皆様方の中にも、忠実な部下の働きに、その部下の仕事上の失敗が生じても、全責任をもって、忠節に援助の手を差し伸べてくださる上司に恵まれた方がいらっしゃるかも知れません。きっと、そのような上司に恵まれた方は、安心し、一層良い仕事に邁進できたに違いありません。
神エホバは、ご自分の民に幾度もご自身の際立った忠節ゆえに、救いの手を差し伸べてくださいました。しかし、神エホバは「処罰を免れさせることは決してない」神でもあります(出エジプト記34:6,7)。邪悪な者に対する神エホバの処罰はそれ自体が忠節な行為です。どうしてそのように言えるのかを引き続きお伝え致します。
聖書の巻末の「啓示」の書にヒントが記されています。そこで神エホバは7人のみ使いに、「行って、神(エホバ)の怒りの七つの鉢の中から地に注ぎ出しなさい」という命令を与えておられます。第3のみ使いが鉢の中から「川と水のわき出るところに」注ぐと、それらは血になりました。そして、そのみ使いは、神エホバに向かってこう言いました。「今おられ、かっておられた方、忠節な方(エホバ)、あなたは義にかなっておられます。このような決定(邪悪な者の裁きの決定)を下されたからです。彼らは聖なる者と預言者たちの血を注ぎ出されましたが、あなた(エホバ)は彼らに血を与えて飲ませました。彼らはそうされるに値するのです」(啓示16:1~6)。
この裁きの音信の布告の中で、み使いがエホバを「忠節な方」と呼んでいることに注目してください。なぜそう呼んだのでしょうか。神エホバが、邪悪な者を滅ぼすことにより、ご自分の僕たちに対する忠節を発揮しておられるからです。神エホバの僕たちの中には、迫害を受けて死んだ人も少なくありません。忠節な神エホバは、そのような人たちをご自分の記憶の中に、あたかも生きているかのように保っておられます。それら亡くなった忠実な人々を再び見ることを切望しておられます。そして聖書は、その人々に復活という報いを与えることが神エホバの目的である、と確信しています(ヨブ14:14,15)。神エホバは、忠節な僕たちを、もはや生きていないからと言って忘れたりはされません。それどころか、「彼らは皆、神(エホバ)にとっては生きている」のです(ルカ20:37,38)。神エホバは、ご自分の記憶の中にある人々に再び命を与えるという神エホバの目的は、神エホバの忠節の強力な証拠です。この偉大な創造者エホバ神に栄光と賛美を帰される方々は幸いです(啓示4:11)。
次回は「エホバの忠節な愛は救いの道を開く」という内容を聖書からお伝え致します。引き続きお読み下されば嬉しく存じます。
刈り取られ 若草の香の 続く道 今日の一句
法華津峠の林の中の「山桜」
山野草のミツスイ花の珍しい花が庭に咲いています。
3月下旬に入り咲いて来ました。
花期は4月~6月です。
今日はミツスイ花とアーモンドの花を紹介致します。
庭に咲いている「ミツスイ花」
わずかに残った「アーモンドの花」
偉大な創造者エホバ神は、愛ある親切に富み、「ご自分の忠節な者たちの魂(命)を守っておられ、邪悪な者たちの手から彼らを救い出される」と記されている通り、苦難に遭っているご自分の民を幾度も救助をされました(詩編97:10)。愛と公正に依ってご自分の力を行使されます。しかし、繰り返し神エホバに反逆する場合は、神エホバの愛ある親切はどうなるのでしょうか。
イスラエル人は一つの国民として当時神エホバとの契約下にありました。しかし、エジプトから神エホバの忠節によって紅海を二つに分け、救出されたにも関わらず、神エホバの愛ある親切・愛ある忠節な行為に感謝を示しませんでした。イスラエル人はエジプトから救出された後、「至高者(エホバ)に反逆することになり、なおもエホバに対して罪をおかし続けた」のです(詩編78:17)。エホバ神に対して幾世紀もの間に繰り返し反逆し、汚れしかもたらさない偽りの神々や異教の習わしに傾倒しました。それでも神エホバは、直ぐに契約を破棄されませんでした。それどころか、ご自分の預言者エレミヤを通して、イスラエルの民にこう哀願されました。「背信のイスラエルよ、帰れ・・・わたし(エホバ)はあなた方(背信のイスラエル人)に怒って顔を向けることはない。わたしは忠節だからである」(エレミヤ3:12)。しかし、大半のイスラエル人は、神エホバの愛ある親切、忠節な行為に心を動かしませんでした。実のところ、「彼らは絶えず真の神(エホバ)の使者たちを笑い物にし、そのみ言葉を侮り、その預言者たちをあざけっていた」のです。その結果、どうなったのでしょうか。ついに、「エホバの激怒はその民に向かって起こり、いやし得ないまでに」なりました(歴代第二36:15,16)。
この聖書の記録から何を学べるでしょうか。神エホバの忠節は盲目的なものではなく、欺き得るものではない、ということを学べます。確かに神エホバは、「愛ある親切に満ちる方」であり、正当な根拠がある場合には喜んで憐れみを示されます。しかし、悪行者が矯正不能なほどに邪悪である場合には、どうでしょうか。そのような場合、神エホバはご自分の義(公正)の基準を固守し、民にとって不利な裁きを下されます。神エホバはモーセを通して教えられたとおり、「処罰を免れさせることは決してしない」のです(出エジプト記34:6,7)。神エホバは一度語った公正の基準を曲げることはされません。
次回は、邪悪な者に対する神エホバの処罰は、それ自体が忠節な行為である、ことをお伝え致します。引き続きお読み下されば幸いです。
紅白の 木蓮の庭 仰ぎ見る 今日の一句
王国会館の花壇の「ビオラ」