宇和島市の隣の鬼北(きほく)町は、高地のため
外気温度は、宇和島市より2℃ほど低いため
八重桜がまだ咲いていました。
八重桜の花は塩漬けにし、桜のお茶を楽しまれる方もいます。
今日は鬼北(きほく)町の八重桜と道辺のピンクの芝桜を紹介致します。
鬼北(きほく)町の「八重桜」
鬼北町の道辺の「芝桜」
宇和島市の隣の鬼北(きほく)町は、高地のため
外気温度は、宇和島市より2℃ほど低いため
八重桜がまだ咲いていました。
八重桜の花は塩漬けにし、桜のお茶を楽しまれる方もいます。
今日は鬼北(きほく)町の八重桜と道辺のピンクの芝桜を紹介致します。
鬼北(きほく)町の「八重桜」
鬼北町の道辺の「芝桜」
私の知人に、見知らぬ人が道辺に座り込み、困っている人を見かけると、ご自宅に案内し食事を恵み、当面の必要を顧みられる方がいます。また、駅の待合室で寒い夜を過ごされている人を見かけると、ご自宅に案内し、食事と宿泊を提供される、実に憐み深い方で、今時なかなか見かけることの出来ない人です。このご家庭はご両親、ご本人夫婦、その息子さん共々に憐れみ深い人たちですが、ご両親は亡くなられました。
今日は人々をご覧になられ「哀れに思われた」イエス・キリストの愛についてお伝え致します。
み父エホバと同様、イエスも同情心に富んでいました。聖書の記録によると、イエスは、苦難に遭っている人々を助けるために力を尽くしました。愛を動機として強く心を動かされたのです。聖書がイエスの同情心を描写するために用いているギリシャ語は、大群衆をご覧になり、「哀れに思われた」と訳されています(マルコ6:34)。ある学者は、そのギリシャ語が「人をその存在のまさに内奥まで動かす感情を描写している。ギリシャ語で同情心を意味する最も強い言葉である」と、述べています。では、イエスが深い同情心に動かされて行動した幾つかの状況を聖書から考察してみましょう。
イエスは、人々の霊的な必要にこたえるように動かされた。福音書の一つのマルコ6章30~34節の記述を読むと、イエスが特に何に動かされて哀れみを表わしたかが分かります。情景を思い描いてみましょう。使徒たちは興奮しています。広範囲に及ぶ神の王国の良いたよりの伝道活動を終えたばかりなのです。弟子たちはイエスのところに戻り、伝道活動で見聞きしたことすべてを熱意を込めて報告をします。ところが、大群衆が集まり、イエスと使徒たちは、食事をする時間もありません。常に人々に気を配るイエスは、使途たちが疲れているのを見て、「さあ、あなた方は自分たちだけで寂しい場所に行き、少し休みなさい」と言われます。一行は舟に乗り、ガリラ湖の北部を渡って、静かな場所に向かいます。しかし、大群衆はそれを見つけ、それを聞きつけた人々も含めて、みんなで北岸伝いに走り、舟より先に対岸に着いてしまいます。
イエスは、プライバシーを侵されて気を悪くされたでしょうか。そのようなことは全くありませんでした。イエスは、自分を待っているその大群衆を見て、心を動かされました。マルコはこのように記しています。「イエスは大群衆をご覧になったが、彼らを哀れに思われた。彼らが羊飼いのいない羊のようだったからである。そして、彼らに(神の王国の真理に関し)多くのことを教え始められた」。イエスは大群衆の一人一人を、霊的な事柄を必要とする人と見做しました。その人々は、導きと保護を与えてくれる羊飼いがいないためにさまよう羊のようだったのです。思いやり深い牧者であるであるべき宗教指導者が無情にも一般の人々をなおざりにしていることを、イエスは知っていました(ヨハネ7:47~49)。イエスは人々を哀れに思い、「神の王国について」教え始めました(ルカ9:11)。ここで注目できるのは、イエスが人々を哀れに思ったのは、神の王国の真理の教えに対する人々の反応を見る前であったという点です。言い換えると、優しい同情心は、イエスが大群衆を教えた結果をとして生じたものではなく、教える動機であったのです。イエスの教えの動機は愛だったのです。私たちはこのイエスの手本に見倣う必要があります(ペテロ第一2:21)。
次回も引き続き、イエスが大群衆を見て「哀れに思われた」のは、人々の「苦しみを和らげるよう動かされた」という内容についてお伝え致します。引き続きお読み下されば幸いです。
山里の 家々伝道 八重桜 今日の一句
道辺の花壇の「パンジー」