市内の整形外科医院の玄関に、珍しい山野草の
鉢植えの「雪餅草」が置いてありました。
私の手持ちの山野草図鑑には紹介されていませんでした。
今日は珍しい雪餅草と白桃の花を紹介致します。
市内整形外科医院の「珍しい雪餅草」
まだ残っていた裏庭の「白桃の花」
市内の整形外科医院の玄関に、珍しい山野草の
鉢植えの「雪餅草」が置いてありました。
私の手持ちの山野草図鑑には紹介されていませんでした。
今日は珍しい雪餅草と白桃の花を紹介致します。
市内整形外科医院の「珍しい雪餅草」
まだ残っていた裏庭の「白桃の花」
イエス・キリストの長くハンセン病(らい病)に苦しんで来られた人を癒す場面は、その人の「苦しみを和らげるよう動かされた」哀れみ深い思いが、見事に記録されています。イエスはハンセン病の人に触ることなく直ちに治す能力が備わっていましたが、それでもらい病人の人に触れ、苦しみを和らげ、ハンセン病を即座に治し、長く社会ののけ者にされて来た原因を取り除かれたのです。更に、イエスの深い愛は、「悲嘆を取り除くように動かされた」ことをお伝え致します。
イエスは、他の人の悲嘆に強く心を動かされました。一例として、ルカ7章11~15節の記述を考えてみましょう。それは、神の王国の宣教期間の半ばころ、イエスがガリラヤの都市ナインの外れに近づいた時のことです。その都市の門の近くで、イエスは葬式の行列に出合います。何とも痛ましい状況です。亡くなったのは、独り息子の若者で、その母親はやもめです。母親は以前にも一度、つまり夫が亡くなった時にそのような悲しみの経験があります。そして、今度は独り息子を亡くした葬式です。その息子が唯一の支えだったに違いありません。共に葬儀で進む群衆の中には、哀悼の言葉を唱えて嘆き悲しむ人はや、もの悲しい曲を演奏する楽士たちも加わっていたかも知れません(エレミヤ9:17、18.マタイ9:23)。とはいえ、イエスは、悲嘆に打ちのめされているやもめの母親に目を留めます。その母親は、愛する息子の遺体を載せた棺台の傍らを歩いていたに違いありません。
イエスは、息子に先立たれた母親を「哀れに思い」、安心させるような口調で、「泣かないでもよい」と話しかけます。そして、自ら進んで近づき、棺台に触ります。棺台を担いでいた者たち - 恐らく他の人々も - 歩みを止めます。その時、イエスは遺体に向かって、威厳のある声で、「若者よ、あなたに言います、起き上がりなさい!」と命じます。すると、直ぐに、「死人は起き直り、ものを言い始め」ます。まるで、深い眠りから覚めたかのようです。その続きには、「次いでイエスは彼をその母にお渡しになった」という、実に感動的な場面が記されています。
これらの聖書の記述から何を学ぶことができるでしょうか。いずれの場合についても、同情心と行動の関係に注目することが出来ます。イエスは他の人の窮状を見ると、哀れに思わずにはいられませんでした。そして、そのような同情を覚えると、それに添って行動せずにはいられませんでした。わたしたちは、イエスの残された手本にどのように見倣えるでしょうか(ペテロ第一2:21)。イエスの弟子であるクリスチャンたちは、神の王国の良いたよりの真理を証しし、弟子を作る務めがあります(マタイ24:14;28:18~20)。そうする、私たちの動機は神エホバに対する愛です。とはいえ、それが同情心に基づく業であることを忘れてはなりません。イエスと同じように人々の気持ちを思いやる時、心に動かされて、神の王国の良いたよりを伝えるために、できる限りのことを行ないたいと願うはずです(マタイ22:37~39)。また、苦しみや悲嘆を経験している仲間に同情を示すことについては何と言えますか。私たちは、奇跡によって身体的な苦しみを取り除くことも、死者を復活させることもできません。しかし、感情移入をし、積極的に気遣いを示したり、ふさわしい実査的な援助を差し伸べることによって、同情心を行動に移すことができます(エフェソス4:32)。
次回は、「父よ、彼らをお許しください」という、イエスの進んで人を許された愛についてお伝え致します。引き続きお読み下されば嬉しく存じます。
藤咲きし 坂道下りる 心地よさ 今日の一句
宇和島市ふくい真珠店の「生け花」
暖かい日が続き、日本人には馴染み深いアヤメの花が咲いています。
アヤメの花は北海道から九州まで広く分布しているようです。
花期は5月~6月と花図鑑には紹介されています。
用途は切り花、花壇です。
花言葉は「恋のメロディ」と紹介されています。
今日は黄色のアヤメと暖かい地のリンゴの花を紹介致します。
道辺に咲いている「アヤメ」
裏庭に咲いている「リンゴの花」
イエス・キリストは、ご自分に付いて来る大群衆をご覧になり「哀れに思われた」深い愛について学ぶと、私たちも見倣う点で大きな益を受けます。引き続き人々の「苦しみを和らげるように動かされた」イエスの愛についてお伝え致します。
様々な疾患や病を抱える人々は、イエスが同情心に富む方であることを感じ、イエスに引き付けられました。その点が顕著になったのは、大群衆がイエスの後について来ているところに、「体じゅうらい病(ハンセン病)の」人が近づいてきた時のことです(ルカ5:12)。当時、他の人にうつらないように、そのような疾患の人は隔離されていました(民数記5:1~4)。しかし後に、ラビと呼ばれる指導者たちは、その病気に対する心ない見方を助長し、独自の過酷な規則を設けました。では、イエスはらい病の人にどのように接したかに注目してください。こう記録されています。「また、ひとりのらい病人が彼(イエス)のもとに来て、ひざまでついて懇願し、「あなた(イエス)は、ただそうお望みになるだけで、私を清くすることがおできになります」と言った。そこでイエスは哀れに思い、手を伸ばして彼(らい病人)に触り、「わたしはそう望みます。清くなりなさい」と言われた。すると、すぐらい病は消え・・・たのである」(マルコ1:40~42)。イエスは、その人がこれまでに他の人から触られることもなく、長年辛い思いをしてこられたことを知っていました。それで、イエスはその人を遠ざけることなく、むしろ強く心を動かされ、当時では考えられない深い同情心を示されました。その人に触られたのです。
その人がイエスに触ってもらってどう感じたかを想像できますか。一つの例で考えてみましょう。ハンセン病の専門家ポール・ブランド博士は、インドで治療したある患者のことを語っています。診察の際、博士はその患者の肩に手を置き、通訳を介して、その人が受けなければならない治療を説明しました。すると突然、その人が泣き始めました。博士は、「何か、悪いことを言ったかな」と尋ねます。通訳は、その若い男性にその人の言語で質問し、こう答えました。「いいえ、先生。この人が泣いているのは、先生がこの人の肩に手をおかけになったからです。ここに来るまでの何年もの間、だれも触れてくれなかったそうです」。イエスに近づいた人にとって、触れてもらったことにはもっと大きな意味がありました。イエスに一度触れてもらっただけで、長い間社会からのけ者にされる原因となっていたハンセン病がすぐに消えたのです。イエスはその人の病と共に苦しみを和らげ、取り除いたのです。この場面の聖句をお読みになると、あなたも神エホバの愛とイエスの愛に感動されるに違いありません。
引き続き、次回は「悲嘆を取り除くよう動かされた」イエスの愛についてお伝え致します。
菜園や 幾種類もの 豆の花 今日の一句
ご近所の庭の「ツツジの花」