愛の神エホバは、私たち人間を「神の像(かたち)」に創造してくださいました(創世記1:26,27)。それゆえ、偉大な創造者エホバ神は、ご自分の比類のない特質の愛を、私たちが反映した生き方をすることを願っておられます。お父さんエホバ神は、み言葉聖書を通して、私たちに「愛がなければ、何の価値もない」と、警告されています(コリント第一13:2)。使途パウロは、私たちが互いに愛をどのように示すべきかについて、愛とは何か、を明らかにしています(コリント第一13:4~8)。今日はその愛に含まれる事柄についてお伝え致します。
1.「愛は辛抱強い」(コリント第一13:4):愛は辛抱強いとは、他の人のことをじっと耐え忍ぶという意味です(コロサイ3:13)。私たちはそのような辛抱強さが必要ではないでしょうか。不完全な人間同士が肩を並べて仕事や奉仕をしているのですから、互いに辛抱と堪忍を働かせるなら、他の人と接する際に生じるちょっとした摩擦やあつれきを、家庭内、職場内、地域での平和を乱さずに解決することができます。
2.「愛は親切」(コリント第一13:4):親切は、他の人の助けになる行動や思いやりのある言葉によって示されます。私たちは愛に動かされて他の人に、とりわけ非常に困窮している人に親切を示す機会を求めます。例えば身寄りのない高齢者が寂しい思いをしており、だれかに訪問してもらい元気づけてもらう必要があるかも知れません。病気の人や、何らかのつらい境遇にある人は、忠節な友からの親切な言葉を必要としているでしょう(箴言12:25;17:17)。そのような点で自ら進んで親切を示すなら、自分の愛の純真さを実証していることになります(コリント第二8:8)。
3.「愛は真実なことと共に歓ぶ」(コリント第一13:6):愛は、真実を擁護して「互いに対して真実を語る」ように私たちを動かします(ゼカリア8:16)。例えば、親しい人が重大な罪に関わった場合、神エホバに対する愛 - そして過ちを犯した人への愛 - があれば、私たちは神エホバの基準を擁護したいと思うはずです。その悪行を覆い隠そう、あるいは正当化しょうとすることも、悪行に関して偽りを語ろうとすることもないはずです。確かに、真実を認めるのは辛いことかも知れません。しかし、その親しい人の最善の益を心に留めているなら、その人が神エホバの愛ある懲らしめの表明を受け入れて、それにこたえ応じることを望むでしょう(箴言3:11、12)。さらに、愛を働かせるクリスチャンとして、私たちは、「すべてのことにおいて正直に行動したい」と願っています(ヘブライ13:18)。
次回も、引き続き「愛に含まれる事柄」についてお伝え致します。愛に含まれている事柄を熟考願い、ご自身の生活に適用してくだされば嬉しく存じます。
WWW.JW.ORG
ツバメ来る 団地防御の 網ありし 今日の一句
市内ふくい真珠店の「生け花」