『おくのほそ道』より「行春や鳥啼魚の目は泪」
句郎 「彌生も末の七日、明ぼのゝ空朧々として、月は在明にて光おさまれる物から、不二の峰幽かに みえて、上野・谷中の花の梢、又いつかはと心ぼそし。むつましきかぎりは宵よりつどひて、舟に乗て送る。千じゆと云所にて 船をあがれば、前途三千里のおもひ胸にふさがりて、幻のちまたに離別の泪をそゝぐ。」このように芭蕉は書いて「行春や鳥啼魚の目は泪」と詠んでいる。
華女旧暦の三月二七日というと新暦ではいつになるのかしら。
句郎 芭蕉は元禄二年に『おくのほそ道』に旅立っている。この年には閏月があったから三月二七日は新暦の五月十六日になる。
華女 「上野・谷中の花の梢」というのは嘘ね。元禄時代から上野が桜の名所だったとしても桜の花が咲いているはずがないでしょ。
句郎 この句の前詞には嘘が書かれている。この文章を素直に読むと旧暦の三月二十七日に深川から船に乗り、千住に上がって旅立ったということになっている。が、『曽良旅日記』によると旧暦の三月二十日に深川から船に乗り隅田川を遡り千住で船を上がったようだ。
華女 それから一週間芭蕉は門人と一緒に寝泊まりして旅立ちの名残の酒宴をしたということなのかしら。
句郎 俳諧を楽しみ、旅立ちの日を見ていたんじゅないかと思っているんだ。
華女 「大安の日」を待っていたということなの。
句郎 多分、そうなんじゃないのかなと愚考しているんだけどね。旅立ちの日は大安でなくちゃと芭蕉と門人たちは日待ちをしていたんだよ。
華女 分かるような気がするわ。父は私が実家を出る日を暦を見て決めていたのを覚えているわ。
句郎 旅の安全とこれが最後になるかと思うと一週間じゃ短かったのかもしれないよ。
華女 旅立ちの別れを惜しむ気持ちは現代人より強いものがあったということね。
句郎 情の篤さがあったんだろうな。
華女 『おくのほそ道』の文章は虚実織り交ぜて旅立ちの別れの情を表現しているのね。
句郎 芭蕉と同時代に活躍した人形浄瑠璃・歌舞伎作家であった近松門左衛門は次のようなことを述べているんだ。「今時の人は、よくよく理詰めの実らしき事にあらざれば合点せぬ世の中、昔語りにある事に、当世受け取らぬ事多し。さればこそ歌舞伎の役者なども、とかくその所作が実事に似るを上手とす。立役の家老職は本の家老に似せ、大名は大名に似るをもつて第一とす。昔のやうなる子どもだましのあじやらけたる事は取らず。近松答へて言く、この論もつとものやうなれども、芸といふものの真実の行き方を知らぬ説なり。芸といふものは実と虚との皮膜の間にあるものなり。」このような近松の芸術論を「虚実皮膜」と言うそうだ。旅立ちの真実、その情というものを虚実織り交ぜて芭蕉は表現していると思っているんだ。
華女 虚と実の間に真実があるということなのね。
句郎 文学や演劇、絵画、音楽など芸術全般に言えることなんじゃないかと思っているんだ。
華女 芭蕉にしても近松にしても実に近代的な考えを持った人たちだったのね。
句郎 日本の近代は江戸時代からという説があるくらいだからね。
華女 確かに魚が別れを惜しんで目に泪をためるはずがあるはずないと思うものね。
句郎 別れを惜しんで「鳥啼魚の目は泪」することは絶対ないことだろうからね。
華女 「行春」の情をこの句は表現しているわね。
句郎 『おくのほそ道』は「船をあが」り「行春」で始まり、「蛤のふたみにわかれ行秋ぞ」。「また船にのりて」、「行秋」で終わっている。出会いと別れ、永遠流転を表現した。