「じたらくにねれば涼しき夕べかな」
句郎 「じだらくにねれば涼しき夕べかな」。宗次という人の句が猿蓑集巻の二に載っているんだ。
華女 元禄時代の人の句ね。三百年前の人も今の人と同じ気持ちだったのね。
句郎 芭蕉同門の人たちが俳諧『猿蓑集』の編集をしている時に宗次という人が数句投稿してきたんだ。見てみるとどの句も入集できるような句ではないというのが編集に携わっている人たちの一致した見解だった。疲れた。皆さんも一服して下さい。私もちょっと横になりますよ。芭蕉が横になると
編集委員たちの間の緊張がほぐれ、去来が自堕落に休むと夕べの涼しさが身にしみますねと、言った。その言葉を聞いた芭蕉は「じたらくの」の句を入集させましょうと言った。この句は発句になっていますよ。こうした事情で入集した句のようなんだ。
華女 どうして゜、そんなことが分かるの。
句郎 『去来抄』に書いてあるんだ。
華女 編集委員会というのは今も昔のかわらないのね。でも芭蕉はどうしてこの句を『猿蓑集』に採
用しようと決めたののかしら。
句郎 「じだらく」という俗語がこの句では詩語になっていることに芭蕉は気付いたからだということを芥川龍之介が『芭蕉雑記』の中で述べているんだ。「じだらくに」は「芭蕉の情調のトレモルを如実に表現した詩語である」と述べている。
華女 へぇー、そうなの。
句郎 芭蕉は弟子の土芳に「俳諧の益は俗語を正す也」と云った。土芳が残した『三冊子』の中にある芭蕉の言葉だ。
華女 「俗語を正す」とは日常用いる言葉を詩語にすることを言うのね。
句郎 「俗語を正す」とは「俗語に魂を与えることである」とも言っているから詩語とは魂のある言葉なのかもしれないな。
華女 言霊のある言葉が詩語なのかもね。
句郎 そうかもしれない。「じだらくにねれば涼しき夕べかな」。この句には人間が表現されているものね。
華女 緊張感から解放されたときの安らぎみたいなものかしらね。
句郎 ふっと口をついてでてくる言葉に人間を表現する言葉が出てくることがあるということかな。。
華女 作意のない言葉ね。
句郎 「命なりわづかの笠の下涼み」。三十三歳の芭蕉が帰郷の際、小夜の中山で詠んだ。この句の「命なり」の語の横に芥川は点を打っている。このことは「命なり」の言葉には魂が籠っているというを意味していると思うんだ。俗語が詩語になっているということだと思う。
華女 真夏の街道を行く旅人にとってはまさに笠の下の涼しさは命なんだと感じるわ。
句郎 作意のない句だね。
華女 作意がなければ句はできないんでしようけれども作意あっては句ができないとは矛盾ね。
句郎 「松の事は松に習へ、竹の事は竹に習へと、師のおりしも私意をはなれよという事なり」という芭蕉の言葉が『三冊子』にある。僕が言う作意とは芭蕉が言う私意ということかな。
華女 作意と私意、同じような言葉ね。
句郎 見た物、そのものが自分の表象となるということ。主体と客体が一体化するということかな。