『おくのほそ道』より「夏山に足駄を拝む首途(かどで)かな」
句郎 栃木県黒羽で詠んだ芭蕉の句かな。
華女 芭蕉は黒羽に知り合いがいたのかしら。
句郎 『おくのほそ道』には次のように書いている。「黒羽の館代浄坊寺何がしの方におとずる。思ひがけぬあるじの悦び、日夜語りつづけて、その弟桃翠(とうすい)などいふが、朝夕勤めとぶらひ、自の家にも伴ひて、親属の方にもまねかれ」と書いている。
華女 歓待されているのね。芭蕉を知っている人でなければ突然の訪問を喜んでくれることはないでしようね。
句郎 現代の我々が想像するよりも元禄時代というのは世間が広かったということがわかるな。
華女 芭蕉は江戸で有名な俳人として知られていたということなんでしようね。
句郎 俳諧というものが地方の武士や町人の間に普及していたということなんだろう。
華女 いつだったか、長谷川櫂氏が俳諧の普及が日本の識字率を向上させたというようなことを述べていたわ。
句郎 俳諧を楽しむということが大事なんだろうね。字を覚える。言葉で表現する楽しみが日本の識字率を向上させたということなんだろうな。
華女 江戸からの客人が訪ねてきてくれたということで親戚中の人々が集まり、歓待してくれ、名所なども案内してくれたんでしょう。
句郎 そのようだ。『おくのほそ道』には「日をふるままに、日とひ郊外に逍遙して、犬追物の跡を一見し、那須の篠原をわけて玉藻の前の古墳をとふ」と書いているからね。
華女 「玉藻の前」とは、何か、伝説があるのよね。
句郎 殺生石の伝説かな。
華女 そうよ。殺生石の伝説よ。蝶や昆虫、野鳥などがその石に近づくと死んでしまうということから伝説が生まれたんでしよう。
句郎 そのようだ。謡にも『殺生石』があるからね。
華女 芭蕉は謡『殺生石』を知っていたのよね。だから「玉藻の前の古墳をとふ」と書いているのよね。
句郎 玉藻前伝説とは、平安時代末期に鳥羽上皇の寵姫であったとされる美女のことのようだ。妖狐の化身であり、正体を見破られた後、下野国那須野原で殺生石になったという伝説かな。
華女 伝説が生きていた時代に芭蕉も生きていたということなんだと思う。
句郎 源義経贔屓の芭蕉は那須与一神社を参拝している。
「与一扇の的を射し時、べっしては我国氏神正八とちかひしもこの神社にてはべると聞けば、感應殊しきりに覚えらる」と『おくのほそ道』に書いている。
華女 『平家物語』ね。
句郎 そうなんだ。源氏と平家が海ぞいで向かい合い、 平家は船の上に扇を的として立て、「当ててみろ」と挑発。源氏側の弓の名手・那須与一が見事に扇を射ち落とし、敵からも味方からも、称賛されたという物語かな。
華女 源平合戦というのは牧歌的な戦だったのかしら。
句郎 だよね。戦争ではなく、弓の試合、スポーツのような話だよね。
華女 のんびりした時代だってことなのかしら。
句郎 『曽良旅日記』を読むと芭蕉たちは居心地が良かったのか十日以上も黒羽の館代浄坊寺宅に居候していた。
華女 昔の日本人は、とても情の深い人が多かったということなのかしら。
句郎 『おくのほそ道』の旅は芭蕉にとって死を賭しての旅であったことは確かなことであったは思うが、実際の旅は楽しい旅であったということは事実だったんじゃないのかな。
華女 楽し旅であったからこそ『おくのほそ道』のような文章が書けたということなんでしょうね。
句郎 「修験光明寺(しゅげんこうみょうじ)といふあり。そこにまねかれて行者堂を拝す」と書き、詠んだ句が「「夏山に足駄を拝む首途(かどで)かな」だった。
華女 黒羽からの旅立ち、安全祈願の句ね。
句郎 「足駄を拝む」と詠んだところに当時の旅が表現されているね。今でも山登りをする人が一番神経を使うのが靴だという話をしているのを聞いたことがあるからね。
華女 長距離を歩く旅では、今の靴より、草鞋のような履物の方が歩きやすいようにも思うわ。
句郎 そうかもしれない。靴だと水虫ができたりね。