『おくのほそ道』途上で詠まれた句「秣(まぐさ)負ふ人を枝折(しをり)の夏野哉」
句郎 「秣(まぐさ)負ふ人を枝折(しをり)の夏野哉」。この句に次のような前詞を芭蕉は書いている。「陸奥(みちのく)にくだらむとして、下野国まで旅立けるに、那須の黒羽と云所に翠桃何某の住けるを尋ね、深き野を分入る程、道もまがふばかり草ふかければ」。元禄二年ごろの那須野原というと不毛の野原だった。馬や牛の飼料となる秣(まぐさ)しか育たない広大な野原だった。開墾の結果、現在の那須になった。その歴史は用水路を掘削する厳しい労働の賜物が今の那須野原のようだ。当時の那須野原は行けども行けども秣に覆われた道なき道を旅人は歩んだ。当時の那須野原を芭蕉は表現した。
華女 枝折とは、何なの。
句郎 枝折とは道しるべだよ。昔は木の枝を折って、後続の者の道しるべにしたようだ。
華女 秣を背負って行く人の後について那須野原を渡ったということなのね。
句郎 枝折がなければ那須野原を通り抜けることができないほど、道幅は狭く、縦横に道が入り組んでいたということなんじゃないのかな。
華女 那須の夏野を表現した芭蕉の句ということね。
句郎 夏野が表現されている名句だと思うな。
華女 単なる写生を超えている句だと思うわ。
句郎 僕もそう思うな。クールベの絵『石割人夫』を思い出すような風景が思い浮かぶ句のように思う。
華女 そうね。汗だくなって足早について行かないと見えなくなってしまいそうな気がする夏野だったのよね。
句郎 この句の発案は「秣刈人を枝折の夏野哉」のようだ。「秣を背負う人」と「秣刈る人」との違いだけれども、夏野を表現するには「秣負ふ人」でなければ広大な夏野は表現されないと芭蕉は推敲したんじゃないのかな。
華女 芭蕉は推敲の人だったのよね。
句郎 芭蕉は天才だということではなく、努力の人だっんたじゃないのかな。努力することが好きな人だったんだと思うな。
華女 苦も無く努力できる人が天才なのよ。
句郎 何か、召命観のようなものに憑かれた人だったんじゃないのかな。
華女 俳諧に、なのね。
句郎 俳諧は神から命じられた私の使命だというような気持ちなのかな。
華女 そうよね。芭蕉には家族というようなものを持たなかったんでしょ。
句郎 人間は家族を持つことによって一人前になるという面があるように思うんだ。職人さんや商売している人の場合、家族のいる人と家族のいない人では信用度が違うというじゃない。
華女 そうよね。家族のいる人の方が安心して付き合えるような気がするわね。
句郎 そうでしょ。そんな気がするんだよね。だから男も女も結婚し、子供を育てる営みの中で人間になっていくような気がするんだ。
華女 芭蕉は家族を持つことがなかったということで人間として一人前じゃなかったのよね。
句郎 しかし芭蕉は俳諧を通して立派な大人になった。そのような人が近代以前の人にはいたんじゃないのかな。
華女 なぜそんなことが言えるの。近代社会になると家族を持つことが可能になったということなのかしら。
句郎 芭蕉の時代は、旅に生きる人生など家族を持っている人にはできなかった。独り者だから旅に生きる人生を送ることができたんじゃないのかな。
華女 そうよね。遠洋航海の船乗りを夫に持った人の奥さんは寄港地まで子供を連れて夫に会いに行ったという話を聞いたことがあるわ。
句郎 芭蕉は独り者ではあったが、寂しい人生ではなかった。芭蕉のまわりには数多くの友人、門人に囲まれていた。
華女 確かに芭蕉には数多くの門人がいたのよね。門人がいたからこそ、芭蕉の文学は世に普及したのかもしれないわよ。
句郎 江戸や尾張、近江、浪花など各地に蕉門ができていたからね。
華女 そのような人々の中で芭蕉の俳諧は創られていったのよね。
句郎 芭蕉は俳諧をとおして人間になっていった。その成果が芭蕉の句なんだ。