醸楽庵(じょうらくあん)だより 

主に芭蕉の俳句、紀行文の鑑賞、お酒、蔵元の話、政治、社会問題、短編小説、文学批評など

醸楽庵だより  837号  白井一道

2018-08-31 13:01:51 | 随筆・小説


 俳句の成り立ちと表現


句郎 「発句は頭よりすらすらと、いひ下し来るを上品とす。先師酒堂に教へて曰、発句は汝が如く二ツ三ツ取集メする物にあらず。金を打延たる如く成るべしと也」と『去来抄』の中で去来は師匠芭蕉の教えを述べている。
華女 芭蕉が最上川で詠んだ「五月雨を集めて早し最上川」のような句が良い句だと言っているのね。
句郎 そのような一物仕立ての句が良いと言っている一方でまた次のようにも言っている。「発句は物を合すれば出来るなり。」とも同じ『去来抄』の中で芭蕉の言葉を述べている。
華女 俳句には一物仕立ての句と取り合わせの句、二つがあるということなのね。
句郎 すべての俳句は一物仕立ての句か、それとも取り合わせの句ということになるようだ。
華女 それから句中に切れのある句と切れのない句、取り合わせの句で、句中に切れのある句と切れのない句があるんじゃないの。
句郎 そうするとすべての俳句は四種類の句に分けられるということなのかな。
華女 『おくのほそ道』黒羽で芭蕉が詠んだ句「夏山に足駄を拝む首途かな」。この句は一物仕立ての句、句中に切れのない句ということね。
句郎 「五月雨を集めて早し最上川」。この句は「集めて早し」で切れている。「早し」は形容詞の終止形だから切れている。一物仕立ての句ではあっても切れがある。
華女 終止形になっている場合はそこで切れているんだということが分かるからいいのよ。でも例えば「田一枚植えて立ち去る柳かな」の場合、「立ち去る」の「去る」は終止形でもあるし、連体形でもあるわね。「立ち去る柳」とも捉えることは可能よね。
句郎 柳が田を植えて立ち去ることはあり得ないから「田一枚植えて立ち去る」の「去る」は終止形だとわかるのじゃないかと思う。
華女 すると「田一枚植えて立ち去る」と「柳かな」との取り合わせの句になるということね。
句郎 そうなんじゃないのかな。
華女 終止形と連体形の語形が同じ場合、何か意味的な違いが出てくるようなことはないのかしらね。
句郎 具体的な例があるのかな。
華女 俳句じゃないんだけど例えば「昨日こそ早苗取りしかいつのまに 稲葉そよぎて秋風の吹く」という詠み人知らずの歌が『古今集』にあるのよ。この「秋風の吹く」と万葉集にある額田王の歌「君待つと我が恋ひ居れば我が宿の簾動かし秋の風吹く」の「秋の風吹く」ね。「吹く」の終止形と連体形の語形は同じなのよね。古今集の歌の「吹く」は終止形じゃないかと私は、考えているのよ。額田王の歌の場合の「吹く」は連体形なんじゃないかしら。連体形で体言化した「吹く」になっているように感じているのよ。
句郎 「秋風の吹く」と「秋の風吹く」の意味的違いがあるのか、どうかということだよね。
華女 「秋風の吹く」と言った場合と「秋の風吹く」と言った場合の違いよ。
句郎 基本的には意味することは同じだと思うけどね。
華女 古今集の歌の場合、「もう秋風が吹き始めている」という感じよね。でも万葉集の歌の「秋の風吹く」と言った場合、心の中に吹き始める秋風のような感じがするわ。
句郎 終止形と連体形、語形は同じでも読んだ時の語感が微妙に違ってくるようにも感じるな。
華女 万葉集を書いている女性の漫画家が額田王のこの歌を絶賛しているのを聞いたことがあるのよ。彼女も男を待った経験があるんじゃないかと思ったわ。
句郎 待つ女の気持ちが「秋の風吹く」という言葉に籠っているということかな。
華女 「秋風の吹く」は軽いのよ。それに比べて「秋の風吹く」には強い思いが籠っているように感じるわ。
句郎 よく短歌は動詞の詩、俳句は名詞の詩と言うようだけど、名詞的表現の方が強い思いが籠っているのかもしれないな。
華女 「秋の風吹く」という表現は名詞的な表現だと言えるように思うわ。
句郎 額田王の歌には現代にも通ずる女の深い思いのようなものが籠っているのかもしれないな。
華女 きっとそこに女の原風景があるのよ。