アサガオの季節は秋だということ
句郎 アサガオの季語はいつ?
華女 夏じゃないのよね。よく間違いやすいのよ。私は間違わないわよ。アサガオは秋なのよ。
句郎 アサガオはなぜ秋なのかな。
華女 秋なんじゃないの。俳人の宇田喜代子さんがこの間テレビで話していたわ。なぜ秋なのか。分からないのよ。俳句をしているとそのうち分かる人にはわかるのよとね。
句郎 そのうち俳句を詠んでいるとあぁー、アサガオの季節感は秋なんだということが実感されるということかな。
華女 そうなんじゃないのかしら。アサガオは秋だと私は覚えたのよ。
句郎 「朝顔につるべ取られてもらひ水」。加賀千代女の有名なアサガオの句があるでしょ。この句のどこに秋の季節が表現されているのかな。
華女 正岡子規が酷評した句ね。秋の季節感を言う前にこの句は理屈の句だと子規は酷評したのよ。
句郎 確かに理屈の句だといえばそうなのかもしれないな。
華女 でもね、私には分かるような気もするのよ。
今でもこの句を良い句だと言っている人がいるみたいよ。だからいまだに人に知られている句なんじゃないの。
句郎 秋の季節感が表現されているということなのかな。
華女 そうよ。アサガオには秋の季節感が表現されているのよ。アサガオを見て秋が来たなと感じられる感性が磨かれなくちゃ、アサガオが秋の季語だということは実感されないのよ。
句郎 宇田喜代子さんがそのうち分かる人には分かるということはそういうことなのかな。
華女 俳句を詠むということは季節感という感性を磨くことなのよ。日々の生活の中で季節の移ろいに敏感になっていくということが俳句を詠むということなのよ。
句郎 この千代女の句には「アサガオに」ではなく「アサガオや」という形も伝えられているようだ。
華女 「に」と「や」の違いね。「アサガオに」の方が断然分かりやすいわね。「や」だと切れるから内容がちょっと複雑になるわね。
句郎 そう子規の言う理屈の句から開放されるかな。
華女 そうね。いわれてみると「アサガオや」の方が俳句としてはいいような気がしてきたわ。
句郎 「アサガオや」とすると朝起きて井戸端に行った時のアサガオの美しさに見とれている人の姿が瞼に浮かんでくるよね。
華女 井戸水を汲み出す釣瓶にアサガオの蔓が巻き付いているのを取ることができないということなのよね。
句郎 禅の研究で有名な鈴木大拙は「彼女がいかに深く、いかに徹底して、この世のものならぬ花の美しさに打たれたかは、彼女が手桶から蔓をはずそうとしなかった事実によってうなずかれる」『禅』の中で書いているらしい。
華女 彼女はアサガオの花の透明な美しさに打たれたのよね。子規は「もらい水」に「俗極まりて蛇足」だと言ったようだけどもそうじゃないのよね。
句郎 そうなんだろうな。この句は今朝の秋を表現した句なんだろうな。アサガオの花には秋が表現されているんだ。ここが分からないとこの句が秋だいうことが分からない。