『おくのほそ道』途上で詠まれた句「結ぶより早歯にひびく泉かな」 芭蕉
華女 「結ぶより」とは、何を意味しているのかしら。
句郎 「掬(むす)ぶ」という意味のようだ。手で水を掬うということ。
華女 いわれて思い出したわ。「袖ひちてむすびし水のこほれるを春立つけふの風やとくらむ」。紀貫之の歌にあったわね。「むすびし水」とは、「掬びし水」ということね。
句郎 袖を濡らして手ですくった水が凍っている。この氷を今日の春風が溶かしてくれるようだということかな。
華女 古今集にある貫之の歌よ。
句郎 「早歯にひびく」がうまいなと、思う。
華女 「衰ひや歯に喰ひ当てし海苔の砂」という芭蕉の句があるでしょ。泉の水を見ただけで歯に水が沁みるという句ではないような気がするわ。
句郎 芭蕉が「結ぶより」の句を詠んだのは元禄二年、一六八九年、四六歳の時だからね。確かに芭蕉の歯は衰え始めていたと思うな。歯周病はあったのではないかと思う。
華女 そうよね。海苔をたべたらジャリジャリした。嫌なことよね。きっと痛かったのよ。
句郎 「結ぶより」の句は、まだ両手で水を掬って飲んでいない。だから泉の水を見た爽快感を「歯にひびく」と表現した。
華女 そこに芭蕉の言語感覚があるわけね。
句郎 びっしょり汗で濡れた着物を脱ぎ、水を手で掬い飲み、体を拭ける喜びが沸いてきたんだろうな。
華女 道野辺にこんこんと湧き出る泉に出会った喜びの句なんだろうと思うわ。
句郎 夏の旅人が泉に出会った主観を詠んでいる。
華女 泉を詠んでいるわけじゃないのよね。泉に出会った時の気持ちを表現しているのよね。
句郎 現代の俳句の俳句となんら変わることのない俳句だと言えるように思う。
華女 この句を詠んだのが芭蕉だということを知らない人だったら、この句が三百年前の句だとは思えないような句だと思うわ。
句郎 芭蕉の句は近代の俳句だと言えるのかもしれないな。
華女 とても近代的な句なんじゃないのかしら。
句郎 そうなのかもしれない。