『おくのほそ道』行脚中に詠んだ「落ちくるやたかくの宿の郭公(ほととぎす)」
句郎 「みちのく一見の桑門同業二人、那須の篠原をたづねて、猶殺生石みむと急ぎ侍る程に、雨降りいでければ、先此ところにとどまり候」と前詞を置いて「落ちくるやたかくの宿の郭公(ほととぎす)」と詠んでいる。
華女 「同業二人」とは、お遍路さんのかぶる笠に書かれた言葉よね。
句郎 芭蕉と曽良の陸奥行脚はお遍路だったんだろうな。陸奥歌枕巡礼の旅が『おくのほそ道』紀行文になったのではないかと思っている。
華女 歌枕巡礼、お遍路だったということね。
句郎 新しい俳諧の創造を模索した結果が歌枕巡礼だったのじゃないのかな。
華女 歌枕「殺生石」を訪ねたということなのね。
句郎 芭蕉が殺生石を訪ねたいと思った理由は謡『殺生石』で知られたところを実見したいと思ったからだと思う。
華女 謡『殺生石』とは、どのような話なのかしら。
句郎 殺生石とは、悪さをする石なんだ。亜硫酸ガスなどを出して虫や鳥、蛇などを殺す石を殺生石と言って地域の人々は恐れていた。
華女 那須岳の火山活動によって亜硫酸ガスなどの噴出があったのね。
句郎 そのようだ。しかし当時はそのような科学知識がなかったので伝説のようなものが生まれたんだと思う。
華女 地域で生まれ、語り続けられていくうちに物語が生成していったのかもね。
句郎 「昔、鳥羽の院の時代に、玉藻の前という宮廷女官がいた。才色兼備の玉藻の前は鳥羽の院の寵愛を受けたが、狐の化け物であることを陰陽師の安倍泰成に見破られ、正体を現して那須野の原まで逃げたが、ついに討たれてしまう。その魂が残って巨石に取り憑き、殺生石となった」。
華女 そこにお坊さんが現れ、功徳を施すと悪さをしなくなったという話ね。
句郎 その石はどんな石なのかなと思って好奇心の強かった芭蕉は訪ねたと思う。
華女 芭蕉は好奇心の強い人だったのね。
句郎 黒羽の浄坊寺図書に゜紹介された高久村の庄屋角左衛門宅で芭蕉と曽良は休ませてもらった。そのお礼に芭蕉は句と文を書いた。その句が「落ちくるやたかくの宿の郭公(ほととぎす)」だった。この文書が高久宅に現存しているようだ。
華女 へぇー、大変なお宝ね。
句郎 その句文は「殺生石見んと急ぎ侍るほどに、 雨降り出ければ、先、此処にとどまり候。
落ちくるやたかくの宿の時鳥 翁
木の間をのぞく短夜の雨 曾良」とあるそうだ。
華女 俳諧になっているのね。
句郎 「落ちくるや」とは殺生石を想像させているのかもしれないな。
華女 高久角左衛門への挨拶吟なのかもしれないわね。
句郎 「落ちくるや」という上五が効いているよね。
華女 ホトトギスの鳴き声が聞こえる良いところですねと挨拶しているのよね。
句郎 曽良も雨宿りをさせていただいてありがとうございましたと気持ちを詠んでいる。
華女 俳諧とは文と文との交流なのね。
句郎 日本の挨拶文化が俳諧という文芸を生んだのかもしれないな。
華女 挨拶とは人と人との付き合いの始まりよね。
句郎 日本における人と人との交流を遊びにしたものが俳諧だったのかもしれないな。その遊びを文学としての文芸にまで高めたのが芭蕉だったんだろうな。