醸楽庵(じょうらくあん)だより 

主に芭蕉の俳句、紀行文の鑑賞、お酒、蔵元の話、政治、社会問題、短編小説、文学批評など

醸楽庵だより  822号   白井一道

2018-08-15 10:35:17 | 随筆・小説


  『おくのほそ道』よれ「荒海や佐渡によこたふ天河」  芭蕉


 旧暦の七月四日に芭蕉は新潟県出雲崎でこの句を詠んでいる。今の暦でいうと八月九日、暑い盛りである。曾良旅日記の七月四日には「快晴。風、三日同風也。辰ノ上刻、弥彦ヲ立」とある。青空の下、快い風に吹かれて、午前八時頃、芭蕉と曽良は弥彦を出発した。その後、「寺泊リノ後也。壱リ有。同晩、申ノ上刻、出雲崎ニ着。宿ス。夜中、雨強降」とあるから寺泊を経て出雲崎に午後四時頃到着し、出雲崎で泊まった。その夜は強い雨が降った。弥彦から出雲崎までおよそ三十二キロを歩き通した。
 出雲崎に着いたのが申の上刻、午後四時のことであるから8月上旬ではまだ明るい。宿に着いた芭蕉は行水でも浴びた後、食事までの時間に浜辺から眺めた佐渡を思い起こし、「銀河の序」という文章を残している。
「北陸道に行脚して越後の国出雲崎といふ所に泊る。
かの佐渡がしまは海の面十八里、滄波を隔てて、東西三十五里によこほりふしたり、みねの嶮難谷の隅々までさすがに手にとるばりな
りあざやかに見わたさる。
 むべ此の島はこがねおほく出でてあまねく世の宝となれば限りなき目出度き島にて侍るを大罪朝敵のたぐひ遠流せらるるによりてただおそろしき名の聞こえあるも本意なき事におもひて
窓押し開きて暫時の旅愁をいたはらむとするほど、日既に海に沈んで月ほのくらく銀河半天にかかりて星きらきらと冴えたるに、沖のかたより波の音しばしばはこびてたましひけづるがごとくた腸ちぎれてそぞろにかなしびきれば草の枕も定まらず、墨の袂なにゆえと
はなくて、しぼるばかりになむ侍る。
 あら海や佐渡に
横たふあまの川 」
 北陸道は現在の国道四〇二号線である。この街道を十月初旬にドライブした人の紀行文を読むとうっすらと佐渡島が見えたと書いている。十月より八月の方が景色は曇っている。それなのに芭蕉は「みねの嶮難谷の隅々までさすがに手にとるばりなりあざやかに見わたさる」と書いている。今から三百年前は空気が澄んでいたのかもしれい。
 浜辺に寄せる波音が枕元
に響いてくる。太陽が海に沈み、月がほの暗く銀河の半天にかかる。星がきらきら輝くのを見ながら佐渡島の歴史に芭蕉は思いをよせる。佐渡島は本来、宝を産する目出度き島であるはすなのに時の政権に叛旗を翻した朝敵である大罪人を流刑にした島である。島流しにあった世阿弥や文覚上人のことを思うと哀しみに腸が千切れるような旅愁にかられた。
 「荒海や」、この言葉には本土から切り離された島に生きる人の哀しみが表現されている。その哀しみに生きる人に対する架け橋が「天の川」である。「天の川」に籠められた意味は肉親や友人・知人から切り離されて生きる人への思いになっている。
 荒海に佐渡が横たわっている。夜空には天の川がかかっている。「荒海に佐渡横たふや天の川」。この句は実景である。この実景の句を「荒海や佐渡に横たふ天の川」と捻った。「荒海に」を「荒海や」と変え、「佐渡横たふや」を「佐渡に横たふ」と変えた。このように捻ったことによって雄大な宇宙と歴史的広がりが表現されている。