『おくのほそ道』に載る句「田一枚植えて立ち去る柳かな」 芭蕉
華女 芭蕉の「遊行柳」の句として知られている句ね。
句郎 芭蕉にとって西行は人生の師であったんだろうからね。
華女 新古今集にある西行の歌「道のべに清水流るゝ柳かげしばしとてこそ立ちどまりつれ」。この歌に刺激された猿楽師が創作した謡が「遊行柳」よね。
句郎 この能「遊行柳」を芭蕉は見ていたんだろうね。
華女 西行の歌、猿楽師の謡があって初めて芭蕉の句が生れているのね。
句郎 芭蕉より五百年前に西行は京都から奥州平泉、藤原三代の栄耀と言われているところに二度も赴いているからね。
華女 西行は頑健な体をした人だったのね。二度目の平泉行脚はかなり高齢だったんでしょ。
句郎 「年たけてまた越ゆべしと思ひきやいのちなりけり小夜の中山」と六九歳になった西行は詠んでいる。
華女 六九歳と言えば、現代にあっても高齢よね。芭蕉は五一歳で亡くなっているのよね。
句郎 そうだよね。西行は東大寺再建の勧進として平泉に砂金を求めて行ったようだからね。無事砂金を東大寺まで運んだようだから大変な旅を西行はしたんだと思うな。
華女 まさに命がけの旅だったのね。
句郎 西行が蘆野の柳影で一服し、詠んだ歌が謡曲になり、芭蕉が慕い、詠んだ句が「田一枚植えて立ち去る柳かな」だった。その結果、今では蘆野の田んぼの中にあるどこにでもある柳が蘆野の観光名所になっている。
華女 西行の歌や芭蕉の句が現代にあっても多くの人に親しまれているということは凄いことね。
句郎 西行の歌も芭蕉の句も何でもないようなことを詠んでいる。夏の日差しを避けるため柳の木陰で休んだということだけ。ここに詩があるということなんだろうな。
華女 当時にあっても庶民の生活感覚に訴えるような歌であり、句になっているんじゃないのかしらね。
句郎 四十一歳の芭蕉は『野ざらし紀行』の中で「芋あらふ女西行ならば歌よまむ」と詠んだ句がある。西行は俗なものを風流なものとして捉えている。ここに芭蕉が西行の歌を慕う理由があったんじゃないのかな。
華女 田植えは農民の働く姿よね。農作業そのものを俳諧の対象にしているというところに芭蕉の俳諧があったということね。
句郎 貴族や武士の生活を詠んでいない。農民や町人の生活を詠んでいるところに芭蕉の俳諧があるということなんだろうな。
華女 元禄時代になって町人や農民の生活が俳諧の対象になったということなのね。
句郎 芭蕉は農民や町人の文学として俳諧を普及した。ここに近代文学が誕生したと言えるように思ったりもするんだ。
華女 そうよね。近代イギリス文学はシェイクスピアに始まるんでしょ。なぜならシェイクスピアはラテン語ではなく、英語で書いているのよね。当時のイギリス庶民が読める言語で書いているからシェイクスピアの劇を当時の庶民も楽しめたのよね。
句郎 「田一枚植えて立ち去る柳かな」。現在日本の中学生でも楽々読める言葉で芭蕉は表現しているからね。まさに芭蕉は日本近代文学の祖だと言ってもいいんじゃないかと思うな。
華女 この句の「田一枚植えて立ち去る」のは誰なのかしら。
句郎 芭蕉なんじゃないのかな。
華女 それじゃ、芭蕉が田んぼの中に入って田を一枚植えたの。そうじゃないでしょ。芭蕉は柳の木陰で一服しただけなんじゃないのかしら。
句郎 そう、芭蕉は西行を偲び、当地の早乙女たちが田植えする姿を西行が見ていたのではないかと想像したんだ。「田一枚植えて立ち去る」西行の姿を想像して芭蕉自身柳の木陰で一服し、立ち去ったということなんだと私は解釈している。
華女 西行の歌「道のべに清水流るゝ柳かげしばしとてこそ立ちどまりつれ」。謡曲「遊行柳」を芭蕉は思い起こし、想像した世界を詠んだというように句郎君は解釈したのね。
句郎 この句はいろいろな解釈があるようだ。解釈は読者のものだから。いろいろな解釈があっていいと思う。