醸楽庵(じょうらくあん)だより 

主に芭蕉の俳句、紀行文の鑑賞、お酒、蔵元の話、政治、社会問題、短編小説、文学批評など

醸楽庵だより   1149号   白井一道

2019-08-09 12:07:07 | 随筆・小説



  蕎麦はまだ花でもてなす山路かな  芭蕉 元禄7年



句郎 「蕎麦はまだ花でもてなす山路かな」元禄7年。『続猿蓑』。「伊勢の斗従(とじゅう)に山家を訪はれて」と前詞がある。
華女 斗従(とじゅう)とは、芭蕉の門人だったのかしら。
句郎 芭蕉の遺書を代筆した弟子として知られている史考と一緒に伊賀上野の芭蕉庵を訪れた。斗従(とじゅう)はどこの誰なのかわかっていないようだ。
華女 この句は伊賀上野で晩年の芭蕉が詠んだ句なのね。
句郎 元禄時代の伊賀上野は山の中の城下町だった。
華女 伊勢から山の中の伊賀上野までようこそ訪ねて下さいましたという挨拶の句ね。
句郎 今栄蔵の『芭蕉年譜大成』によると元禄7年9月3日、史考と斗従(とじゅう)は伊賀上野の芭蕉庵を訪ねている。翌日歌仙を巻いている。その発句なのかもしれない。
華女 蕎麦の花は晩夏の頃咲くのかしら。
句郎 夏も終わりになろうかという季節に蕎麦の花は咲く。蕎麦の畑は、一面白いじゅうたんを広げたような光景になるという。蕎麦の花の1つ1つはとても小さな白い花のようだ。その花が見頃を迎えると、まわりの景色は一変するとう。その白い花には、蜂や蝶といった虫たちも集まってくる。花には芳しい香りや、甘い密がたっぷりとあるようだ。
華女 私の実家は農家だけれども蕎麦を植えているのを見たことはないわ。
句郎 水田地帯ではなく山国の畑で植えられていたのが蕎麦だと思う。
華女 伊賀上野は山国ということね。「蕎麦はまだ花でもてなす」とは、蕎麦の実はまだ実っていないので蕎麦の花を見て行ってくださいということ。
句郎 客である史考と斗従への挨拶かな。
華女 蕎麦は昔、救荒作物だったのよね。今では高級な食べ物の一つに蕎麦が数えられる食品になっているものがあるわね。
句郎 蕎麦にもピンキリがある。近代以前は交通網が整備されていなかったから、天候が不順になったりすると大規模な米の不作を招き、深刻な飢饉を引き起こすことが珍しくなかった。そのため、統治者側は囲米・義倉・常平倉など米などを予め備蓄したり、「喰延(くいのばし)」と呼ばれる食料消費の節約策(具体的には酒や酢・麹・豆腐・納豆・菓子類の製造禁止もしくは制限など)を実施したりした。民間や地域でも、社倉と呼ばれる義倉と同等の仕組みを行った。 それとともに救荒食物の栽培も行われた。栽培は統治者側から奨励されることもある。続日本紀によれば、奈良時代に元正天皇は以下の勧農の詔を発布して、晩禾・蕎麦・大麦及び小麦の栽培を勧農していた。
華女 けっして蕎麦は美味しい食べ物だと見なされていなかったのよね。貧しい農民や町人の食べ物が蕎麦だったように思うわ。
句郎 元禄時代は勿論蕎麦は救荒作物の一つだった。
華女 農民や町人たちが喜んで食べたものではなかったということね。
句郎 位の高い公家や武士が喜んで食べたものではなかった。
華女 貧しい農民や町人たちが空腹を満たすために食べた蕎麦の花を美しいものとして芭蕉は詠んでいるわ。
句郎 蕎麦や蕎麦の花は和歌が詠むものではなかった。農民や町人の俳諧師が初めて句に詠んだ。今まで誰も蕎麦や蕎麦の花が俳諧の対象になるとは思わなかった。
華女 蕎麦と蕎麦の花に芭蕉は俳諧を見つけたということなのね。
句郎 蕎麦や蕎麦の花は和歌の対象ではなかった。蕎麦の花を美しいものだとは誰も感じなかった。思い込みとは恐ろしいものだ。蕎麦の花を見ても美しいと感じなかった。思い込みを捨て、真っ白な気持ちになって一面の蕎麦の花を見たとき、芭蕉は蕎麦の花がなんと美しいのかと感じたのではないかな。