醸楽庵(じょうらくあん)だより 

主に芭蕉の俳句、紀行文の鑑賞、お酒、蔵元の話、政治、社会問題、短編小説、文学批評など

醸楽庵だより   1162号   白井一道

2019-08-21 12:25:23 | 随筆・小説



    この秋は何で年寄る雲に鳥   芭蕉  元禄7年



句郎 「この秋は何で年寄る雲に鳥」 元禄7年。『笈日記』。「旅懐」と前詞がある。「この句はその朝より心に籠めて念じ申されしに、下の五文字、寸々の腸を裂かれはるなり」と『笈日記』にある。
華女 年は取るのではなく、年は寄ってくるのね。
句郎 「年寄」という名詞はあるが「年取り」という名詞は定着していないように思うけど。
華女 年が寄ってくる実感というものが芭蕉にはあったということね。
句郎 芭蕉最晩年の名句の一つのようだ。
華女 下五の「雲に鳥」という言葉を生むのに腸が裂ける思いをして芭蕉は詠んでいるのね。
句郎 雲間に鳥が消えていくということだよね。
華女 芭蕉は死を自覚したということね。
句郎 この句を芭蕉は元禄7年9月26日に詠んでいる。
華女 芭蕉が亡くなったのは元禄7年10月12日よね。9月26日には死神の招きを芭蕉は感じていたということね。
句郎 今年の秋はどうしてこんなに年が寄ってくるのか、体の弱りが身に沁みる実感があった。
華女 まわりに心配してくれる門人たちに囲まれていても芭蕉の心は絶対的な孤独に打ちひしがれているということね。
句郎 渡り鳥が雲間にきえて行くように私も一人誰にも手の届かないところに旅立っていくということだと思う。
華女 この句も芭蕉の辞世の句だと言っても間違いじゃないような句ね。
句郎 「この道や行く人なしに秋の暮」。この句も立派な芭蕉の辞世の句のように思うけれども「この秋は何で年寄る雲に鳥」、この句も確かに辞世の句だと言えると思う。
華女 人間、死が近づいてくると分かるということなのね。
句郎 ある日、突然襲ってくる死があるようにも思うが、徐々に年が寄ってくる日々があるということも事実だということなのかもしれない。
華女 芭蕉の人生は孤独なものではなかった。いつもそばには誰かがいた、そのような人生だったと思うけれども死ぬときは絶対的な孤独だということね。
句郎 行く人のいない道を私は一人で旅立っていくのが死への旅ということかな。
華女 芭蕉にとって年が寄ってくることを拒みたいという強い気持ちがあったというように私は思うわ。
句郎 そのような気持ちを圧し潰す圧倒的な体の弱り方と芭蕉は最後まで戦い続けたのではないかとは思う。
華女 私、父の死を看取っていたとき、見舞いに来てくれた人に父は病床で訴えていたわ。薬が効けば治るのだと言うのよ。医師の父の友人が父の言葉を受け取り、そうですとも、薬が効いて治りますともと何べんも言うのよ。この父と父の友人の言葉を聞いていて私思ったわ。医師の友人の方は絶望的だということを十二分に分かっていて、父の言葉を受け入れていた。死にたくない。死にたくない。この強い気持ちが人間にはあるのだということを父の言葉を聞いていて実感したわ。
句郎 芭蕉も死にたくないという強い気持ちがあったに違いないとは、思うけれども少しづつ死を受け入れていくことがあったのではないかと思っている。芭蕉と同時代を生きた人に円空仏で有名な円空がいる。円空は元禄8年(1695)美濃の弥勒寺で生きたまま自分で掘った穴に身を修め、水や食を断って、その生涯を閉じたと言われている。円空は自らの死を自覚し、即身仏への道を選び、旅立った。芭蕉は元禄2年3月27日、埼玉県春日部市の観音院に宿泊したと観音院は主張している。この日、円空は観音院に宿泊している。芭蕉と円空は観音院で会っている可能性がある。芭蕉にも円空に相通じる心性がある。俳諧に生き、俳諧に死ぬ人生を芭蕉はおくったからね。