醸楽庵(じょうらくあん)だより 

主に芭蕉の俳句、紀行文の鑑賞、お酒、蔵元の話、政治、社会問題、短編小説、文学批評など

醸楽庵だより   1165号   白井一道

2019-08-24 11:10:20 | 随筆・小説



    旅に病で夢は枯野をかけ廻る   芭蕉  元禄7年



句郎 「旅に病で夢は枯野をかけ廻る」 元禄7年。『笈日記』。『枯尾花』に、「ただ壁をへだてて命運を祈る声の耳に入りけるにや、心細き夢のさめたるはとて、~旅に病で夢は枯野をかけ廻る。また、枯野を廻るゆめ心、ともせばやともうされしが、是さへ妄執ながら、風雅の上に死ん身の道を切に思ふ也、と悔まれし。8日の夜の吟なり」(其角) とある。
華女 芭蕉の辞世の句だと高校生の頃、教わったような記憶があるわ。
句郎 高校の授業で唯一記憶に残っている芭蕉の句というとこの句かな。
華女 私はその他にもいくつか記憶に残っている句があるわ。
句郎 僕もあるかな。「野ざらしを心に風のしむ身哉」。この句も印象深い句だったように思うな。
華女 『おくのほそ道』に載せてある句を勉強したのよね。「夏草や兵どもが夢の跡」。この句も記憶に残っている句よね。
句郎 「五月雨の降り残してや光堂」。平泉、中尊寺光堂を詠んだ句も記憶にあるな。
華女 心に沁みた句は「閑さや岩にしみ入蝉の声」ね。真夏の森の中の静かさには神が宿っている。このような気持ちを抱いたわ。
句郎 「象潟や雨に西施が合歓の花」。雨に打たれた眠っている美女のイメージが瞼に浮かび、張り付いてしまった。
華女 「荒海や佐渡によこたふ天河」。7月7日、七夕、離ればなれになった織姫と彦星が年に一度天の川を渡り、逢う。 荒海に隔てられた織姫と彦星の話に空想が膨らんだ記憶があるわ。
句郎 芭蕉に興味を持ったのは高校の頃の古典の授業を通してからかな。
華女 高校の授業もまんざらでもないわね。
句郎 高校を卒業し、40年近く、芭蕉の俳句を読むこともなかったが、定年退職後芭蕉の俳句を読む楽しみを与えてくれたように思うな。
華女 『モーロク俳句ますます盛ん』という本を坪内捻転氏が書いているわよ。俳句はモーロク老人の脳を活性化するのいいのかもしれないわよ。
句郎 17文字が世界を創り出すからな。楽しみになる。でもほとんどは自己満足に終わってしまう。だからどうしても句会が俳句には必要なんだろうね。
華女 句会なしに俳句は成立しない文芸なのかもしれないわ。
句郎 芭蕉は偉大だ。芭蕉以後の日本人に俳句を詠む楽しみを新しく創り出したということだからね。
華女 芭蕉は西暦1694年元禄7年10月5日、久太郎町御堂ノ前、花屋仁右衛門貸座敷に移ったと今栄蔵『芭蕉年譜大成』は書いているわ。10月12日、申(さる)の刻(午後4時)に亡くなったのよね。
句郎 遺言によって芭蕉の遺体は湖南の義仲寺に納めるため、その夜、淀川の河船に乗せ伏見まで登った。河船には去来、其角、乙州、支考、丈草、惟然、正秀、木節、呑舟、二郎兵衛の10人が付き添ったと『芭蕉翁行状記』にあるそうだ。
華女 10人もの弟子が付き添って湖南の義仲寺まで行ったのね。
句郎 当時あっても芭蕉の死は社会的事件であったということだと思う。
華女 芭蕉の存在は孤高ではあっても社会的存在になっていたということね。
句郎 それだけ元禄時代にあって、俳諧という文芸が江戸だけではなく、京にあっても大坂、名古屋、近江など各地において文化的影響力のあるものになっていたということなのかな。
華女 芭蕉は名もなく貧しく美しく生きた人ではなく、世俗の中で名を成し、世俗の生活を十分楽しんで亡くなった人であったということね。
句郎 今でいうなら、有名な芸能人の死に匹敵するような死であったということだと思う。
華女 芭蕉には家族もなく奥さんも子供もいない人ではあったが多くの弟子に囲まれていたのね。