醸楽庵(じょうらくあん)だより 

主に芭蕉の俳句、紀行文の鑑賞、お酒、蔵元の話、政治、社会問題、短編小説、文学批評など

醸楽庵だより   1157号   白井一道

2019-08-16 10:42:16 | 随筆・小説



    升買うて分別替る月見哉   芭蕉  元禄7年


句郎 「升買うて分別替る月見哉」 元禄7年。『正秀真蹟書簡』。
華女 今日は控えましょう。昨日も頂きましたからね。今日は止めておきまょう。そのような気持ちがあったのよね。でも実際お酒を買うと気持ちが変わると言うことなんでしょう。
句郎 左党はだらしない。お酒の誘惑に勝てない。そのような酒好きの弱さを詠んだ句だと思っていたがどうもそうではないようなんだ。元禄7年9月にこのような句を芭蕉は詠んでいるのだからね。
華女 この句には前詞が付いているのかしら。
句郎 「十三日は住吉の市に詣でて」と前詞がある。
華女 元禄7年9月13日ね。大坂、住吉大社に詣でたのね。
句郎 住吉大社では枡の市が行われていた。この祭りは宝の市と言われていた。大社の御田で刈り取りのお祭りを行い、引き続き本宮にて刈り取った初穂と五穀を神前にお供えをする神事だ。「宝之市」とは、文字通り、神のお恵みによって得られた「お宝」、お米のことだ。つまり稲作りに励んだ結果できたお米をはじめとするさまざまな生産物を神にお供えし、その残りを庶民で分け合うというお祭りを、具現化したもが「宝之市」だ。後に「升の市」と言われるようになったのは庶民がお米の分け前にあずかるのに升で分け与えられた。その升が売られるようになった。その結果、「宝の市」は「升の市」と呼ばれるようになったようだ。
華女 「升買うて」とは、てっきりお酒を升で買ったのだと思ったわ。
句郎 僕もそう思った。それはそれでいいように思う。俳句は読者のものだからね。俳句が作者の手から離れたら俳句は読者のものになる。どのように読もうがそれは読者の自由だ。お酒を見るまでは今日もまたお酒を飲むのは止めようと思っていた気持ちがお酒を見たら変わると言うことはよくあることだからね。
華女 仕事をしている同僚に向かってそろそろ時間かかな、なんて言って誘っている人をよく見たわ。もう少し仕事したいと思っていてもお酒の誘いだと分別が変わることはあるみたいよね。
句郎 最近は女同士でもそのようなことがあるようだよ。
華女 時代は変わったのよ。女同士で居酒屋に飲みに行く時代になっているのよ。
句郎 元禄7年9月13日、大坂住吉大社の升の市に芭蕉は行こうと思ったが行けなかった。この夜、長谷川畦止亭で十三夜の月見を予定していたが、ここで容体悪化して断念したようだ。
華女 「升買うて分別替る月見哉」とは、まったくの芭蕉の想像上のことなのね。
句郎 そうなんじゃないかな。芭蕉の身体は病んでいた。14日は小康を得て畦止亭での俳諧の会に参加した。その発句がこの句のようだ。
華女 俳諧の仲間に元気なところを見せようとしたということなのね。
句郎 月見を楽しむ句を芭蕉は詠んだ。
華女 お月見の会でもあった俳諧の席には、お酒はつきものだったのでしょう。「升買うて分別替る」とは、お酒のことなのよ。
句郎 今日はお酒も楽しめるほど私は元気ですよと俳諧の仲間たちに元気なところを見せたということかな。
華女 前日に予定していた俳諧の会をキャンセルしたことへの詫びの気持ちを述べているようにも思うわ。
句郎 そうなのかもしれない。その気持ち以上の気持ちが芭蕉にはあった。米を測る升を見るとそこに農民の汗を見るような気持ちに芭蕉はなった。農民の苦労を思った。お米は大切に大切にいただかなければならないと新たな分別を持ったということかな。
華女 芭蕉の身分は農民よね。お米をつくる農民の苦労を芭蕉は身をもって知っているのよね。
句郎 軽々しくお米を扱ってはいけないとね。