醸楽庵(じょうらくあん)だより 

主に芭蕉の俳句、紀行文の鑑賞、お酒、蔵元の話、政治、社会問題、短編小説、文学批評など

醸楽庵だより   1171号   白井一道

2019-08-30 11:37:21 | 随筆・小説



    猿引は猿の小袖を砧哉   芭蕉  元禄間年



句郎 「猿引は猿の小袖を砧哉」。元禄間年。『続有磯海』。
華女 猿引というのは日本の代表的な放浪芸の一つよね。
句郎 猿引には長い歴史があるみたいだ。若かった頃、村崎義正著・筑摩書房『歩け、飛べ、三平』を読み、教育の原点を教わった記憶がある。,
華女 芭蕉は放浪芸人、猿引に優しい視線を持っていた人なのね。
句郎 元禄時代というのは江戸徳川幕藩体制が安定した時代だった。五代将軍綱吉は文治主義を徹底した。その結果、身分差別を強化し、秩序が安定した。
華女 放浪芸猿引はどのような身分にされていたのかしら。
句郎 全国各地の城下町や農村に「猿引で呼ばれる猿まわし師の集団が存在し、地方や都市への巡業を行っていた。猿引の一部は賤視身分にされ、風俗統制や身分差別が敷かれることもあった。当時、猿まわしは旅籠に泊まることが許されず、地方巡業の際はその土地のや猿飼の家に泊まらなければならなかった。新春の厩の禊ぎのために宮中に赴く者は大和もしくは京の者、幕府へは尾張、三河、遠江の者と決まっていたようだ。猿まわしの本来の職掌は、牛馬舎とくに厩(うまや)の祈祷にあった。猿は馬や牛の病気を祓い、健康を守る力をもつとする信仰・思想があり、そのために猿まわしは猿を連れあるき、牛馬舎の前で舞わせたのである。大道や広場、各家の軒先で猿に芸をさせ、見物料を取ることは、そこから派生した芸能であった。
華女 猿引は被差別民として江戸幕府から規制されてしまったということね。
句郎 社会秩序を整えるということは支配する者の都合だからね。
華女 本来、人間を支配するなんてことはできないものなんじゃないのかしらね。
句郎 話し合いをして合意を互いに築いて社会ができていくというのが自然の在り方だよね。
華女 元禄時代に生きた人々の猿引に対する視線には賤視があったということね。
句郎 元禄時代に京でお俊伝兵衛(おしゅんでんべえ)心中事件と四条河原の刃傷事件に伴って、親孝行の猿回しが表彰された事件があった。この事件が後に『近頃河原の達引(ちかごろかわらのたてひき)』という浄瑠璃義太夫節になり、歌舞伎にもなった。このような出来事に敏感だった芭蕉は猿引などの放浪芸人に対して同じような放浪の俳諧師として親しみを感じていたのかもしれない。
華女 俳諧師も一種の芸人のような存在だったということね。
句郎 芭蕉の生活を支えてくれたのは支援者からの援助だった。まったく猿引と同じような放浪芸人だったといえると思う。
華女 芭蕉は自分を客観的に見ることができる人だったということね。
句郎 猿引を見て芭蕉は自分の方がマシだなとは思うことはなく、共感する。砧を打つ音に自分の生活の侘しさを感じたのかもしれない。
華女 砧を打つ音の響きが秋の夜の肌寒さと侘しさを感じさせるものなのよ。
句郎 私の祖母が嫁だったとき、家族は皆寝ているのに嫁一人砧を打つことが嫁の勤めだといって夜なべをさせられたことを聞いた。
華女 砧を打つ音には女の哀しみが籠っているのよ。
句郎 李 恢成の小説に『砧をうつ女』がある。女の哀しみを書いた本だった。秋の夜の砧を打つ音には人間の哀しみが籠っているように感じるな。
華女 現在は砧を打つ音を聞くこともなくなってしまったから、砧と言っても知らない人が多くなっているのじゃないのかしら。
句郎 猿引は猿に着せる小袖に砧を打っている。女の仕事を秋の夜長に男が猿の小袖に砧を打っている。妻もまた砧を打っている。秋の夜を芭蕉は表現した。