秋深き隣は何をする人ぞ 芭蕉 元禄7年
句郎 「秋深き隣は何をする人ぞ」 元禄7年。『笈日記』に「明日の夜は芝柏(しはく)が方にまねきおもふよしにて、ほつ句つかはし申されし」と史考の前書があり、この句が出ている。9月28日の記事である。『陸奥鵆(むつちどり))』には「大坂芝拍興行」、『六行会』には「ある人に対し」の前書があり、句形は上五が「秋深し」であるが、誤伝どあろう。このように井本農一は『日本古典文学第28巻 芭蕉』角川書店の中で述べている。芭蕉は上五を「秋深し」ではなく、「秋深き」と詠んでいる。
華女 「秋深き」と「秋深し」、一文字違うことによって句の意味するものが大きく違ってくるのかしら。
句郎 「秋深し」とした場合、「深し」で切れる。「秋深し」と「隣は何をする人ぞ」、この二つの言葉は別々の言葉として響き合うことになる。「秋深き」とした場合、「深き」は連体形だから「隣は何をする人ぞ」につながる言葉になる。
華女 「秋深し」と「隣は何をする人ぞ」との取り合わせの句なのか、それとも「秋深き隣は何をする人ぞ」という一物仕立ての句なのかということなのね。
句郎 そういうことなのかな。島崎藤村はこの句を「秋深し隣は何をする人ぞ」と取り合わせの句として理解していたという話を聞いたことがある。
華女 「秋深し」と理解すると都会の孤独を表現しているということになるわね。
句郎 三百年前の元禄時代にはすでに現代社会の都会の孤独を芭蕉は表現していたということになりそうだ。
華女 この時、芭蕉は体を病んでいたのよね。
句郎 芭蕉は元禄7年9月29日以後病床が立ち上がることができなくなった。
華女 芭蕉は元禄7年9月28日まで連日句会に参加していたのね。どこに宿をとっていたのかしら。
句郎 9月26日には清水で「この秋は何で年寄る雲に鳥」を詠んだの句会に参加し、翌27日には園女亭で「白菊の目にたててみる塵もなし」を詠んでいる。28日には畦止亭で恋の句「月澄むや狐こはがる児の供」を詠んでいる。29日が芝拍亭での句会が予定されていたが芭蕉は参加することができなかった。芝拍亭に届けられた句が「秋深きと隣は何をする人ぞ」であった。それまで芭蕉は大坂の酒堂邸で世話になっていたのではないかと志田義秀は述べている。
華女 志田義秀とは、芭蕉学者なのかしら。
句郎 戦前の芭蕉学者だった。芭蕉の門人、酒堂邸の隣が芝拍亭であった。芭蕉は酒堂も芝拍も旧知の仲であった。
華女 「秋深き」の句を芭蕉はどこで詠んでいるのかしら。
句郎 酒堂邸で芭蕉は「秋深き」の句を詠んでいると志田義秀は推測している。この推測を井本農一も継承している。
華女 そうすると隣人の芝拍と芭蕉は知り合いだったと言うことになるわね。
句郎 そう、だから「秋深し」とするとおかしい。知り合いの芝拍は今頃何をしているのかなと、いう句が「秋深き隣は何をする人ぞ」という句の意味になる。
華女 なんか、人情というか、ほんわかした人と人との温もりのようなものを感じてきたわ。
句郎 軽い人情の機微のようなものを表現した句が「秋深き」の句のようだ。
華女 ちょっとした人情の機微のようなことを表現した句を「軽み」というのかしらね。
句郎 この句は「軽み」の句のようだ。芭蕉の句にも造詣の深い俳人の長谷川櫂氏もこの句は「秋深き」でなければ句にならないと述べている。
華女 句郎君は長谷川櫂氏を尊敬しているのよね。
句郎 私が芭蕉の句や紀行文を読み始めたのは定年退職後からだからね。私は長谷川櫂氏の著書を読んで芭蕉の勉強を始めた次第だからね。