醸楽庵(じょうらくあん)だより 

主に芭蕉の俳句、紀行文の鑑賞、お酒、蔵元の話、政治、社会問題、短編小説、文学批評など

醸楽庵だより   1155号   白井一道

2019-08-14 10:35:53 | 随筆・小説



    菊に出でて奈良と難波は宵月夜   芭蕉  元禄7年



句郎 「菊に出でて奈良と難波は宵月夜」 元禄7年。『窪田意専・服部土芳宛書簡』にある句。
華女 芭蕉が奈良を出発し、大坂に向かったのが元禄七年九月九日、菊薫る重陽の節句の日だったということなのね。
句郎 その夜、芭蕉は大坂 に着いて酒堂宅へ草鞋を脱いだ。
華女 奈良と大坂は近いのよね。生駒山を越すと大坂ね。
句郎 元禄七年九月九日に大坂に着いた芭蕉は、最初酒堂亭に草鞋を脱ぐが後に之道亭に移る。酒堂と之道はこの頃対立していた。芭蕉は膳所の正秀らの懇願にあって両者の和解を策していた。
華女 蕉門は大きな組織になっていたのね。之道は何をしていた人なのかしら。
句郎 之道は伏見屋久右衛門という大坂道修町の薬種問屋の主人だった。大坂蕉門の重鎮の一人で芭蕉の最後を看取った弟子の一人のようだ。
華女 芭蕉が亡くなるの元禄七年十月十二日よね。元禄七年九月といったら芭蕉の最晩年ね。
句郎 元禄七年の九月十日に之道邸で発病、病の床についている。
華女 そのような状況下でこの句は詠まれているということね。
句郎 芭蕉の死因は胃の病のようだから、お腹が痛かったのじゃないのかな。
華女 菊の香に送り出されて奈良から大坂に来てみると奈良と同じような月夜だったということね。
句郎 芭蕉は痛みに強い人だったのかな。
華女 そんな人、いないわ。痛みに強い人なんていやしないわ。ただ我慢強い人がいるのよ。
句郎 まだ九月九日の段階ではまで胃の痛みは出ていなかった。
華女 「奈良と難波は宵月夜」。中七と下五の言葉には明るさがあるわね。
句郎 「宵月夜」という季語そのものに明るさがあるように思うな。
華女 「宵」という言葉そのものに浮き立つような気持ちが籠っているように感じるわね。
句郎 月に関する言葉が日本語には多いように感じるな。
華女 季語「月」についての傍題の数は突きぬけて多いように思うわ。
句郎 日本人はお月さまを昔から愛でてきた長い歴史があるのじゃないのかしら。
華女 蕪村にも「宵月夜」を詠んだ句があったように思うわ。
句郎 「水仙に狐もあそぶや宵月夜」かな。
華女 一幅の絵ね。芭蕉の句にはない明るさがあるわ。
句郎 芭蕉の「宵月夜」より蕪村の「宵月夜」の方が断然明るいように思うな。
華女 之道さん、酒堂さん、共に宵月夜を楽しみましょうよと、言っているようにも感じるわね。                     
句郎 月見を共にすれば仲良くなれるというものでもないが、一緒に月見を楽しみましょうということかな。
華女 きっとそうなのよ。月を愛でる伝統というものは万葉の時代からあるのだから。
句郎 そうだよね。「天の原 ふりさけみれば春日なる 三笠の山に出し月かも」。中学生の時、国語の時間に覚えた最初の月を愛でる和歌だったかな。
華女 阿倍仲麻呂の歌ね。
安倍仲麻呂は十九歳で遣唐使と共に唐へ留学した人ね。その後、現地の官吏登用試験・科挙に合格。玄宗皇帝に仕え、寵愛されたと私も教わったような記憶があるわ。
句郎 中国の月を見て故郷日本の奈良の月を思い出して詠んだ歌だよね。
華女 中学生の頃、教わった歌がもう一つあるわ。「「この世をばわが世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば」という歌よ。この歌は歴史の時間に教わった記憶があるわ。
句郎 平安時代の摂関政治の時間だったように私も覚えているな。藤原道長が絶対権力を持った時代を象徴する歌として教わったな。
華女 昔の日本人は月をこよなく愛でていたのよね。