芭蕉と『徒然草』Ⅲ
芭蕉は『徒然草』を読み、刺激を受けたので
はないかと、考えられている箇所がある。その箇所は第四一段である。
「五月五日、賀茂の競(くら)べ馬を見侍りしに、車の前に雑人(ぞうにん)立ち隔てて見えざりしかば、おのおの下りて、埒(らち)のきはに寄りたれど、殊に人多く立ち込みて、分け入りぬべきやうもなし。
かかる折に、向ひなる楝(あうち)の木に、法師の、登りて、木の股についゐて、物見るあり。取りつきながら、いたう睡りて、落ちぬべき時に目を醒ます事、度々なり。これを見る人、あざけりあさみて、「世のしれ物かな。かく危き枝の上にて、安き心ありて睡るらんよ」と言ふに、我が心にふと思ひしまゝに、「我等が生死の到来、ただ今にもやあらん。それを忘れて、物見て日を暮す、愚かなる事はなほまさりたるものを」と言ひたれば、前なる人ども、「まことにさにこそ候ひけれ。尤も愚かに候ふ」と言ひて、皆、後を見返りて、「こゝに入らせ給へ」とて、所を去りて、呼び入れ侍りにき。
かほどの理、誰かは思ひよらざらんなれども、折からの、思ひかけぬ心地して、胸に当りけるにや。人、木石にあらねば、時にとりて、物に感ずる事なきにあらず」。
鎌倉時代にも競馬は人気のスポーツだった。京都、加茂神社で行われる競馬には大勢の見物人が集まった。兼好法師も庶民に混じって競馬見物に出かけた。すでに馬場には人垣ができて、前に出ることができない。ふと気づくと楝(あうち)の大木によじ登り、枝に腰掛け、競馬を見物しようとしている法師がいる。この法師はまだ競馬が始まらないと知ると居眠りをしている。木から落ちそうになると目を覚まし、また安定を得ると居眠りし始める。そのようなことが何回かあった。その法師を見ていた人々があざけり、軽蔑するように「愚か者よ。あんな危ない所で居眠りしているよ」と言うのを聞いた兼好法師はふと気づいたことがあった。我々はいつ死ぬか誰にも分からない。その時が今かもしれない。それなのに暢気に競馬を見て日を過ごそうとしている。愚か者は私たちかもしれませんよと、兼好法師が言うと確かにそうだと言う。前の方にいた人々が振り返り、手招きをして兼好法師を前の方に呼び入れてくれた。人間は木や石じゃない。胸に落ちる言葉を聞けば
人は変わる。
芭蕉は元禄元年(1688)、姥捨山の月見に出かける。それが『更科紀行』である。
「更科の里、姥捨山の月見んこと、しきりにすすむる秋風の心に吹きさわぎて、ともに風雲の情をくるはすもの」。
この『更科紀行』の中に『徒然草第41段』の影響を受けている文章があるという。その文章が次のものである。
「只あやうき煩(わずら)ひのみやむ時なし。桟(かけ)はし、寝覚(ねざめ)など過て、猿が馬場・たち峠などは四十八曲がりとかや、九折重なりて、雲路にたどる心地せらる。歩行(かち)より行くものさへ、眼くるめき、たましひしぼみて、足さだまらざりけるに、かのつれたる奴僕、いともおそるゝけしき見えず、馬の上にてたゞねぶりに眠りて、落ぬべき事あまたたびなりけるを、あとより見あげて危き事かぎりなし。仏の御心に衆生のうき世を見給ふもかゝる事にやと、無常迅速のいそがはしきも、我身にかへり見られて、阿波(あは)の鳴戸は波風もなかりけり」。
芭蕉は寝覚(ねざめ)、たち峠、猿が馬場峠を通り姥捨ての里の月見をして善光寺に向かっている。
たち峠には現在トンネルができている。峠道の石畳が現在残っている。猿が馬場峠(さるがばんばとうげ)は善光寺参りの街道における麻績宿(おみじゅく)と桑原宿の間にある最難関の峠道である。この猿が馬場・たち峠などの四十八曲がりや九折重なる雲路をたどる心地する道を馬にまたがり居眠りをする奴僕を見て、芭蕉は『徒然草第41段』の文章を思い出し、居眠りする馬に乗った奴僕を笑えないと思った。後ろから見ていると危ないこと限りないが笑えないと自戒している。この世の我々を仏さまは危ないことをしているなと思っていても決して何も言うことはしない。奴僕のしていることに余計な心配はいらない。芭蕉は奴僕を対等な人間として見なしている。