猪の床にも入るやきりぎりす 芭蕉 元禄7年
句郎 「猪の床にも入るやきりぎりす」 元禄7年。『正秀真蹟書簡』。
華女 この句は擬人化しているのかしら。
句郎 「臥す猪(い)の床」は和歌によく詠まれていることのようだよ。
華女 どのような歌があるのかしら。
句郎 「枯藻かき ふす猪の床の 寝をやすみ さこそ寝ざらめ かからずもがな」。和泉式部の歌が『後拾遺和歌集』にあるようだ。
華女 何を詠んでいるのかしら。
句郎 枯れ草を被って猪は床に臥して熟睡する。たとえ,これほど良く寝られないとしても、この様に眠れずに思い悩む事が無かったらなあと、言うように意味みたいだ。
華女 「臥す猪の床」とは、思い悩み、熟睡できない苦しみを持つ人が熟睡している人を羨む気持ちを表現する言葉なのね。
句郎 「猪の床にも入る」とは、熟睡している人の床に入り込むということなのかな。
華女 「きりぎりす」とは、実際のキリギリスではなく、誰なのかしら。
句郎 奈良を出た芭蕉は難波に出て、酒堂邸の世話になった。芭蕉は酒堂と並んで寝た。酒堂は大の鼾かきだった。体の弱り果てた芭蕉は自分をキリギリスに例えて詠んだ。
華女 きりぎりすとは、芭蕉自身のことだったのね。
句郎 そのように解釈されているようだ。コウロギを当時はきりぎりすと呼んでいた。
華女 いやはや昨夜は酒堂さんの鼾に一晩中閉口しましたと、ニコニコ笑いながら芭蕉は酒堂さんに話をしたのかもしれないわね。
句郎 それはそれは、大変申し訳ありませんでした。言って下されば私は別の部屋で休みました。このような会話が芭蕉と酒堂との間にあったのかもしれない。
華女 そのような会話を想像させる句のように思うわ。
句郎 この句を読むとまだ芭蕉は元気だったように感じるな。
華女 この句は元禄7年9月何日に詠んでいるのかしら。
句郎 分からない。分かっていることは元禄7年の9月に詠んだ句ではないかということだけ。
華女 元禄7年の9月十日に之道邸で発病し、床についたが一気に病状が進んだということではなかったということなのかしらね。
句郎 鼾に苦しめられて熟睡できなかったというのは理由で本当の理由はお腹が痛かったのかもしれないな。
華女 体の調子が良くないことを芭蕉は言わなかったのかもしれないわ。
句郎 十分寝られなかったのはお腹が痛かったから。
華女 酒堂とは、何をしていた人だったのかしら。
句郎 もともとは近江膳所の医師で、菅沼曲水と並んで近江蕉門の重鎮だった。努力の人で、元禄5年秋には、師を訪ねて江戸に上って俳道修業の悩みを訴えたりしている。これに対して、芭蕉は一句詠んだ。洒堂は後に大坂に出てプロの俳諧師となる。ここで,之道との間で勢力争いの確執を起こし、芭蕉は元禄7年その仲裁に大坂に赴き不帰の人となる。
華女 俳諧師になりたいという意欲をもっていた人だったのね。趣味の俳諧に満足できなかった人だったということね。
句郎 之道と酒堂との張り合いを芭蕉は調整することはできなかった。
華女 体力的にもできなかったのかもしれないわ。
句郎 このような張り合いが大坂であったということは、蕉門俳諧が大坂の人々に大きな影響力をもっていたということをこのことは意味している。
華女 酒堂にとっても芭蕉が死の直前、酒堂と一つ家に休んだという歴史的事実を残したということね。
句郎 芭蕉の俳句が現代に伝えられているということは、芭蕉の弟子たちが師匠の句を伝えているからだと思う。
華女 弟子あっての芭蕉ね。弟子たちが蕉風を広めた。