醸楽庵(じょうらくあん)だより 

主に芭蕉の俳句、紀行文の鑑賞、お酒、蔵元の話、政治、社会問題、短編小説、文学批評など

醸楽庵だより   1206号   白井一道

2019-10-05 11:49:56 | 随筆・小説



  徒然草34段  『甲香(かひこう)は、ほら貝のやうなるが』



 「甲香(かひこう)は、ほら貝のやうなるが、小さくて、口のほどの細長にさし出でたる貝の蓋なり」。

 甲香(かひこう)[煉香(ねりこう)の材料]は、ほら貝のようであるが、形が小さく、口のところが細長くつき出ている貝の蓋である。

 「武蔵国金沢といふ浦にありしを、所の者は、『へなだりと申し侍る』とぞ言ひし」。

 横浜金沢という海岸で捕れたものを、現地の者は「へだなりと申します」と言っている。


 「日本書紀によると、香木は推古天皇3年(595年)に淡路島に漂着したといわれる。日本香文化の源流は古代インドから中国をへて、仏教と共に入り、香木が焚かれるようになることに始まる。平安時代になると、宗教儀礼を離れて、香りを聞いて鑑賞するようになり、薫物合せ(たきものあわせ)などの宮廷遊戯が行われた。この宗教の香・貴族の香に鎌倉時代以降の武士の香、そして禅の教えが加わり、茶道・華道・能などとともに室町時代に誕生、婆沙羅大名はじめ一部上流階級の贅を極めた芸道として発展する。なかでも香道は、それら中世芸道のエッセンスを凝縮した文化として洗練度を高め、当時としては非常に稀少な東南アジア産の天然香木を研ぎ澄まされた感性で判別するという、独自の世界を構築するにいたる。この頃、それぞれに異なる香りを有する香木の分類法である「六国五味」(りっこくごみ、後述)なども体系化された。
 香道においては、線香等のように直接点火する香は用いない。聞香炉に灰と、おこした炭団を入れ、灰を形作り、その上に銀葉という雲母の板をのせ、数ミリ角に薄く切った香木を熱し、香りを発散させる方式がとられる。銀葉を灰の上で押すことにより、銀葉と炭団の位置を調節する。これにより伝わる熱を調節し、香りの発散の度合いを決める。香道具の種類、形状及び作法は流派によって異なる。
 御家流と志野流の二つの流派が存在するが、室町時代から一度も途切れることなく香道を現在まで継承し続けてきたのは志野流のみとなっている。
御家流(おいえりゅう)三条西実隆を流祖とし、室町時代以来大臣家である三条西家によって継承されたが、後に亜流は地下(武士・町人)にも流れる。戦後、一般市民(民間)の香道家・一色梨郷や山本霞月などにより、堂上御家流香道を継承していた三条西尭山が正式に近代御家流宗家として推戴され、三条西家の当主が御家流家元を継承している。なお、御家流の香人は自身の流派を「当流」と称する。現・宗家は三条西尭水。なお、一般には御家流とは各芸道ごとに、特定の流派を指す言葉である。志野流(しのりゅう)東山文化のリーダー八代将軍足利義政の近臣だった志野宗信(1443年 - 1523年 室町時代)を流祖とし、3代志野省巴 ( - 1571年 室町時代)が隠棲する際、流儀の一切を高弟であった蜂谷宗悟(のちの4世)( - 1584年 安土桃山時代)に譲り、初代宗信からの志野流の精神を一度も途切れることなく現・家元蜂谷幽光斎宗玄まで継承してきている。途中、幕末の戦乱に巻き込まれ、特に禁門の変では家屋を消失してしまい、家元存続の危機があったが、尾張徳川家を中心に、尾張地方の名士たちがパトロンとなり家元を守る。これ故に2017年現在、志野流の家元は愛知県尾張(名古屋城近く)に居を構えている。
 香道に関する十の徳。
1.感格鬼神 感は鬼神に格(いた)る - 感覚が鬼や神のように研ぎ澄まされる
2.清浄心身 心身を清浄にす - 心身を清く浄化する
3.能除汚穢 よく汚穢(おわい)を除く - 穢(けが)れをとりのぞく
4.能覚睡眠 よく睡眠を覚ます - 眠気を覚ます
5.静中成友 静中に友と成る - 孤独感を拭う
6.塵裏偸閑 塵裏に閑(ひま)をぬすむ - 忙しいときも和ませる
7.多而不厭 多くして厭(いと)わず - 多くあっても邪魔にならない
8.寡而為足 少なくて足れりと為す - 少なくても十分香りを放つ
9.久蔵不朽 久しく蔵(たくわ)えて朽ちず - 長い間保存しても朽ちない
10.常用無障 常に用いて障(さわり)無し - 常用」
  Wikipediaより