醸楽庵(じょうらくあん)だより 

主に芭蕉の俳句、紀行文の鑑賞、お酒、蔵元の話、政治、社会問題、短編小説、文学批評など

醸楽庵だより   1211号   白井一道

2019-10-10 11:25:27 | 随筆・小説



   徒然草39段  『或人、法然上人に、』



 或人、法然上人(ほうねんしょうにん)に、「念仏の時、睡(ねぶり)にをかされて、行を怠り侍る事、いかゞして、この障(さわ)りを止め侍らん」と申しければ、「目の醒めたらんほど、念仏し給へ」と答へられたりける、いと尊かりけり。

 或る人が法然上人に、「念仏している際に睡魔に襲われ、修行を怠ってしまった時には、どのようにしたら、この障害を乗り越えられましょう」と申し上げると「目が覚めたら、念仏をしたらいい」と答えられたという。大変尊いお言葉だ。

 また、「往生は、一定と思へば一定、不定と思へば不定なり」と言はれけり。これも尊し。

 また、「極楽往生はできると思えばできるし、極楽への往生はできないと思えばできない」と法然上人は言われた。このお言葉は尊いものだ。

 また、「疑ひながらも、念仏すれば、往生す」とも言はれけり。これもまた尊し。

また、「極楽往生できるのかなと、疑いながら念仏するなら往生できる」とも法然上人は言われた。この言葉もまた尊いものだ。

法然の教えを兼好法師は述べている。阿弥陀如来を信ずることが大事だという法然上人の言葉を兼好法師は尊重している。阿弥陀如来を信じることが他力本願だということを兼好法師は分かっていた。法然から親鸞へと継承されていく阿弥陀如来信仰は同時に他力本願、他力信仰が14世紀前半の時代の人々の心を捉えていたことを兼好法師は書いている。
絶対他力ということを述べているところが「往生は、一定と思へば一定、不定と思へば不定なり」という言葉である。阿弥陀仏への信仰が極楽往生ということなのだ。阿弥陀仏への信仰の無い人には、極楽への往生はないと法然は述べている。阿弥陀仏への篤い信仰を持つ人のみが極楽への往生を遂げるということなのだ。この思想をさらに徹底させた人が親鸞ということなのであろう。『歎異抄』の中の有名な言葉がある。
「善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや。
しかるを世の人つねにいわく、
「悪人なお往生す、いかにいわんや善人をや」。
この条、一旦そのいわれあるに似たれども、本願他力の意趣に背けり。
 そのゆえは、自力作善の人は、ひとえに他力をたのむ心欠けたる間、弥陀の本願にあらず。
しかれども、自力の心をひるがえして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生を遂ぐるなり。
 煩悩具足の我らはいずれの行にても生死を離るることあるべからざるを憐れみたまいて願をおこしたまう本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もっとも往生の正因なり。
 よって善人だにこそ往生すれ、まして悪人は、と仰せ候いき」。
善人でさえもが極楽へ往生するなら、悪人が極楽への往生を遂げないはずがないではないか、と親鸞は言う。悪人こそが極楽への往生を遂げないはずがないと。なぜなら本願他力への信仰は悪人であるからこそ篤いものがあるであろう。他力への信仰は自力作善の善人より悪人であるからこそ強いものがあるに違いない。だから悪人こそが極楽への往生を遂げるのだと親鸞は言う。これをもって「悪人正機説」と言われている。
「しかれども、自力の心をひるがえして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生を遂ぐるなり」と親鸞は述べている。他力、阿弥陀仏への信仰が極楽への往生だという。
同じように16世紀前半、ドイツのマルチン・ルターやカルバンは聖書に基づく信仰が人々を救済するということを主張し、キリスト教会の権威を否定した。教会への寄付や教会の教える善行が救済するのではないという主張と共通する教えが法然や親鸞の教えにはあるように思う。ルターやカルバンがローマ・カトリック協会の権威を否定し、聖書に基づく信仰を主張したことと同じようなことを法然や親鸞もしたように考えている。
政治権力と結びついた仏教寺院の権威を否定するような働きをしたのが浄土教の教えに基づいた絶対他力、他力本願の教えにはあるように考えている。親鸞の教えを継承した蓮如が一向宗を組織し、信長軍と戦う中で浄土真宗は日本人の仏教になった。