徒然草36段 『久しくおとづれぬ比』
「久しくおとづれぬ比、いかばかり恨むらんと、我が怠り思ひ知られて、言葉なき心地するに、女の方より、『仕丁やある。ひとり』など言ひおこせたるこそ、ありがたく、うれしけれ。さる心ざましたる人ぞよき」と人の申し侍りし、さもあるべき事なり。
「しばらくの間、女の家を訪ねることをしなかった時分、どんなにか恨んでいることかと、怠けたことを悔やみ、弁解する言葉もないような気持ちでいると、女の方から『下僕がおりましたら、一人貸してくれませんか』と言い出してくれたことほど有難く、うれしかったことはない。このような心根の女ほど良いものはないと話しているのを聞いた。確かに、こうあってほしいものだ。
男の身勝手を受け入れてくれる女を男は良い女だという。男尊女卑の身分制社会に生きた男の身勝手さを受け入れざるを得なかった女の哀しみへの思いは何もない。兼好法師はあっけらかんと男の身勝手さを身勝手だとも考えていない。身分制社会に生きる男にとって、男の身勝手を身勝手だと自覚することはなかった。女から男は身勝手だと糾弾されることなしには男は自分が身勝手だと意識できないのかもしれない。『徒然草36段』を読み、このように感じた。
身分制社会における男女関係は男の身勝手を女は受け入れることが当たり前であり、当然のことであった。やきもちを焼いたり、嫉妬をしたり、恨んだりする女は良い女ではなく、悪い女であった。しかし、支配階級であった公家や武家社会における男女関係がこのようなものであり、被支配階級に生きる男女関係はまた別の在り方があった。被支配階級に生きる人々の大半は農民であった。この農民たちの中の男女関係は支配階級の男女関係とはまた別の在り方だった。働く女性の力なしには農作業ができない以上、農民の男女関係は支配階級における男女関係よりはるかに対等、平等であったのではないかと想像される。農民の社会にあっても男女差別はあったろうが支配階級社会の男女差別とは質的違いがあった。
兼好法師が生きた14世紀前半、鎌倉時代の末期の時代にあっては、嫁入り婚が普及し始めるころである。『徒然草36段』を読むとまだ妻問婚であったことが窺える。妻問婚であったが故に暫くの間、妻の家を訪ねることをしない男の話を兼好法師は書いている。武家社会で嫁入り婚が普及することによって被支配階級の農民へも普及していった。嫁入り婚が普及することによって男尊女卑の風潮は更に強化されていった。男が女の家に通う婚姻形態の母系制社会の方がはるかに男女差別は少なかった。