徒然草52段 『仁和寺にある法師、年寄るまで石清水を拝まざりければ、』
仁和寺にある法師、年寄るまで石清水を拝まざりければ、心うく覚えて、ある時思ひ立ちて、たゞひとり、徒歩より詣でけり。極楽寺・高良などを拝みて、かばかりと心得て帰りにけり。
仁和寺のある法師は、年取るまで石清水八幡宮にお参りすることがなかったので、心残りを覚え、ある時、思い立ちただ一人で歩いて詣でた。極楽寺と高良神社などを拝み、これだけと思って帰って来た。
さて、かたへの人にあひて、「年比思ひつること、果し侍りぬ。聞きしにも過ぎて尊くこそおはしけれ。そも、参りたる人ごとに山へ登りしは、何事かありけん、ゆかしかりしかど、神へ参るこそ本意なれと思ひて、山までは見ず」とぞ言ひける。
さて、後輩の僧侶に向かって、「年来思っていたことを果たすことができた。聞きしに勝る尊さであった。それにしても参る人が皆、山に登るのは何事があるのだろうかと、知りたかったが、神様に参ることこそが私の本意なのだと自分に言い聞かせ、山に登ることはしなかった」と言われた。
少しのことにも、先達はあらまほしき事なり
このような些細な事であっても、先人の存在はあってほしいものだ。
石清水八幡宮に行くということは、神様に参ることに本意がある。その本意を見失ってはならないということを兼好法師は述べている。我々世俗に生きる人間は本意を見失って本意を遂げることができないということが往々にしてある。
松尾芭蕉は本意を遂げた人である。芭蕉が本意を遂げた証としての句の一つが元禄三年に詠んだ「木のもとに汁も鱠(なます)も桜かな」という句であろう。この句について芭蕉の弟子、土芳は著書『三冊子』の中の「あかさうし」で次のように述べている。「この句の時、師のいはく、花見の句のかかりを少し得て、かるみをしたりと也」とこの句は芭蕉の俳諧理念「軽み」を表現した句である。元禄三年以前にも「軽み」を表現している句はあるようだ。例えば貞享元年(1684)、芭蕉41歳の時の句「道のべの木槿は馬にくはれけり」がある。この句は『のざらし紀行』に載せてある句である。許六は「正風開眼の第一声」と称して、「談林の時俳諧に長じ、日々向上にすり上ゲ、終に談林を見破り、はじめて正風体を見届、躬恒・貫之の本情を探て始て、」この句が詠まれたと絶賛している。蕉風開眼の一句が「「道のべの木槿は馬にくはれけり」であるなら、蕉風俳諧の本意を大成した最初の句が「木のもとに汁も鱠(なます)も桜かな」なのであろう。
名句は軽快である。軽い。この軽さに名人芸がある。本意を極めると軽くなる。重いものは良くない。本当に美味しい日本酒は軽い。軽いお酒でなければ、楽しく飲むことができない。重いお酒はお腹に応える。草臥れてしまう。楽しむことができない。
芭蕉がたどり着いた俳諧理念「軽み」には古今集以来の伝統的な詩歌の精神が継承されている。芭蕉は『新古今和歌集』の代表的な歌人西行に私淑していた。西行法師の歌「木のもとに旅寝をすればよしの山花のふすまを着する春風」、この歌の心を芭蕉は継承し、「木のもとに汁も鱠(なます)も桜かな」と詠んでいる。また木下長嘯子(きのしたちょうしょうし)の歌「閨(ねや)ちかき軒端の桜風吹けば床も枕も花の白雪」、この歌の伝統を継承し芭蕉は句を詠んでいる。
西行や長嘨子が詠んだ「花のふすま」や「花のしら雪」が伝統的な風雅の花であるとしたなら芭蕉の詠んだ「汁も膾も」は、元禄時代に生きた町人や農民の生活の中にあった日常生活の中の「汁や膾(なます)」に風雅を発見したものであろう。
そこに芭蕉は俳諧の本意を発見した。俳諧とは世俗の中のものに風雅を発見する文芸であった。その文芸を町人や農民たち自身が楽しんだ。俳諧は和歌の伝統を継承し、町人や農民の生活の中に風雅を見つけ出す営みだった。それは同時に俳諧の本意を極める営みでもあった。
芭蕉は俳諧の本意を求め続け、極めたものが「軽み」という俳諧理念であった。その俳諧理念を具体的に句として表現したものの一つが「木のもとに汁も膾も桜かな」と言う句であり、「此の道や行人なしに秋の暮」、この句に至って感極まる。