醸楽庵(じょうらくあん)だより 

主に芭蕉の俳句、紀行文の鑑賞、お酒、蔵元の話、政治、社会問題、短編小説、文学批評など

醸楽庵だより   1215号   白井一道

2019-10-14 12:07:09 | 随筆・小説



    徒然草43段 『春の暮つかた、のどやかに艶なる空に、』



 春の暮つかた、のどやかに艶なる空に、賎しからぬ家の、奥深く、木立もの古りて、庭に散り萎れたる花見過しがたきを、さし入りて見れば、南面の格子皆おろしてさびしげなるに、東に向きて妻戸のよきほどにあきたる、御簾の破れより見れば、かたち清げなる男の、年廿ばかりにて、うちとけたれど、心にくゝ、のどやかなるさまして、机の上に文をくりひろげて見ゐたり。

 晩春の頃、のどかで艶っぽい空に、みすぼらしくはない家の、奥深く、木立がどこか古びて、庭に散り萎れた花を見過ごすことができなくなり、ちょっと中に入って見て見ると、南向きの格子窓が皆閉められて寂しそうなのに、東に向いては両開きの扉がちょうどよい具合に開けられている、簾の破れから見ると姿かたちの清廉な男、年のころ二十歳ぐらい、打ち解けた態度が心憎いばかり、長閑なる様子で、机の上に本をゆったり開いて見ている。

 いかなる人なりけん、尋ね聞かまほし。

 どのような人なのか、尋ねてみたくなった。


 兼好法師の文章は一文が実に長い。「春の暮つかた」から「くりひろげて見ゐたり」までが一文になっている。どうしてこのように長いのか。「春の暮つかた、のどやかに艶なる空に」というように兼好法師の意識が流れていく。「賎しからぬ家の」というように意識が展開すると読者は何を作者は言おうとしているのか、興味、関心が喚起されていく。「奥深く、木立もの古りて」、作者の意識の流れに沿って読者もまた作者の意識の流れに沿って読み進んでいく。「庭に散り萎れたる花、見過しがたきを、さし入りて見れば」、作者は庭に散り萎れた花を見過ごすことができなくなり、思い切って「もの古り」た木立の中に入って見るとそこに発見したものが出てくる。このように作者、兼好法師は読者の気持ちを引っ張っていく。この意識の冗漫さのようなものが続いて行く中に文章の味わいが醸されていく。
 そこには一軒の家が建っている。南側の格子窓は皆、締め切られていて、寂しそうだが、東側にある出入り口の扉は開かれていて、そこに下ろされている簾のほころびから家の中を覗くと清潔な感じの二十歳くらいの青年が悠々自適にゆったりと読書をしている。その姿が心憎いばかりだと兼好法師は書いている。
 この青年を表現しているうちに長い一文の文章になってしまったということなのだと私は理解した。兼好法師は文章を書くことを楽しんでいる。今私が文章を書く楽しみを味わっているように兼好法師もまた文章を書くことが楽しかったに違いない。
 このように一文が長い文章の伝統というものは現代にまで影響を与えている。例えば泉鏡花の文章は一文が長い。泉鏡花の代表作『高野聖』は次のように書き出されている。
 「参謀(さんぼう)本部編纂(へんさん)の地図をまた繰開(くりひら)いて見るでもなかろう、と思ったけれども、余りの道じゃから、手を触わるさえ暑くるしい、旅の法衣の袖をかかげて、表紙を附つけた折本になってるのを引張り出した」。
「みるでもなかろう、と思ったけれども、あまりの道じゃから」と続いて行く。このような続きに『徒然草』の文章の影響のようなものが出ているように感じるのだ。このような文章は現代文の主流ではないように感じている。現代文の特徴は主語が一つ、述語が一つの文章にあるように考えている。このような文章が読者に負担を与えない文章なのではないかと思う。簡明にして単純な構成の文章が読みやすくも伝わりやすいと言うことだ。このような文章が多い中にあって敢て古い文章の形を真似て書く文章がある。野坂昭如の文章である。
 「もっと近うこな、風あるよって火ィ消えるよ」男は、痩せこけてはいても、まごうかたない女の脚に、お安の風体のすさまじさを見忘れ、いわれるまましゃがみこむと、お安はその肩あたりを寝巻きの裾でおおい、と、下半身がポウと明るく浮き出て、マッチ1本燃え尽きるまでの御開帳」。『マッチ売りの少女』野坂昭如著より
 この野坂昭如の文章には兼好法師や泉鏡花らの文章の影を見ることができるように感じている。「小説の神様」と言われた志賀直哉の文章、単文を重ねていく方法が主流ではあっても一文の長い文章もまた味わいがあるもののようだ。



 飛騨ひだから信州へ越こえる深山みやまの間道で、ちょうど立休らおうという一本の樹立こだちも無い、右も左も山ばかりじゃ、手を伸のばすと達とどきそうな峰みねがあると、その峰へ峰が乗り、巓いただきが被かぶさって、飛ぶ鳥も見えず、雲の形も見えぬ。