徒然草57段 『人の語り出でたる歌物語の、』
人の語り出でたる歌物語の、歌のわろきこそ、本意なけれ。少しその道知らん人は、いみじと思ひては語らじ。
人の話し出した和歌についての逸話で取り上げられている歌の出来が悪いのを見ると残念に思う。少しでも和歌を嗜んだ人であるなら、そのような歌は良くないと思い、取り上げることはあるまい。
すべて、いとも知らぬ道の物語したる、かたはらいたく、聞きにくし。
何事についても十分知っているとは言えないことを話している人の傍にいると聞き苦しい。
歌川広重は近江八景の一つ、堅田で「堅田落雁」の浮世絵を残している。琵琶湖湖畔の堅田は落雁で有名な場所である。琵琶湖西岸のこの地で芭蕉は元禄三年、「病雁の夜寒に落ちて旅寝哉」の句を詠んでいる。また同時に同じ場所で「海士の屋は小海老にまじるいとど哉」の句を残している。この芭蕉の句を俳諧の古今集と言われる「猿蓑」に入集すべきか、どうかを巡って編集に携わった芭蕉の弟子、凡兆と去来の話し合った経過が『去来抄』に載せてある。それは次のような文章である。
「さるミの撰の時、此内一句入集すべしト也。凡兆曰、病鴈ハさる事なれど、小海老に雑るいとゞハ、句のかけり事あたらしさ、誠に秀逸也 と乞。去來ハ小海老の句ハ珍しといへど、其物を案じたる時ハ、予が口にもいでん。病鴈は格高く趣かすかにして、いかでか爰を案じつけんと論じ、終に兩句ともに乞て入集す。其後先師曰、病鴈を小海老などゝ同じごとくに論じけりと、笑ひ給ひけり」。
「病雁の夜寒に落ちて旅寝哉」
「海士の屋は小海老にまじるいとど哉」
どちらの句を入集すべきかを巡って凡兆と去来は話し合った。「病雁の」の句に対して「海士の屋」の句には「かけり」、趣向の鋭い働きがあり、素材の新しさに優れた素晴らしい句だと凡兆は主張した。この凡兆の主張に対して去来は「小海老の」句には珍しさは確かにあるが、小海老を見て、私が句を詠もうとするなら、私でも詠めそうな気がしますよと、主張し、「病雁」の句は格調が高く、趣きの品の良さがあるように思いますと主張している。凡兆と去来は話合い、この二句、両方ともに入集しましょうということになった。
その後、芭蕉はこの話を聞いて「病雁」の句と「小海老」の句とを比べ、どちらの方の句が優れているかと凡兆と去来とが話し合った事を聞いた師の芭蕉は笑ったという。
芭蕉は去来も凡兆も俳諧というものがまだ分かっていないと思ったということか。
芭蕉が詠んだ俳諧の発句は文学である。「病雁」の句は文学である。しかし「海士の屋」の句は文学になっているといえるのか、どうか、疑問だと芭蕉は自分の詠んだ句であっても疑問を感じていたということなのだろう。芭蕉は自分が詠んでいる俳諧というものが文学であると言う自覚はなかったであろう。がしかし芭蕉の詠んだ句は文学になっている。芭蕉は文学という概念を持つことはなかったが文学と言うことを認識していた。文学である以上、人間が表現されていなければ文学ではない。人間に対する認識がなければ、文学ではない。人間に対する新しい発見、認識があって初めて句というものが文学になる。
旅に生き、旅に死んだ人間としての芭蕉は旅に生きる喜びと同時に哀しみを詠った。ここに文学がある。旅に病む人生に人間があると芭蕉は認識していた。この認識を表現した句の一つが「病雁の夜寒に落ちて旅寝哉」である。この句には人間の人生が表現されている。だから文学である。しかし「海士の屋」の句には人生というものが表現されていない。文学という現実態として「海士の屋」の句は存在していない。文学への可能態として存在している。だから「病雁」の句と「海士の屋」の句とを「同じごとくに」論ずることはできないにも関わらずに去来と凡兆は「同じごとくに」論じたことを芭蕉は笑ったのである。
去来も凡兆もまだまだだと芭蕉は考えていた。『猿蓑』の選を任せて大丈夫なのかとハラハラ心配して任せていたのかもしれない。それでも信頼して『猿蓑』の編集を通して去来もまた凡兆も俳諧師として成長していくことを芭蕉は信じていた。その結果、三百年後の今日、今でも『猿蓑』を紐解く人がいる。