徒然草51段 『亀山殿の御池に大井川の水をまかせられんとて、』
亀山殿の御池に大井川の水をまかせられんとて、大井の土民に仰せて、水車を作らせられけり。多くの銭を給ひて、数日に営み出だして、掛けたりけるに、大方廻らざりければ、とかく直しけれども、終に廻らで、いたづらに立てりけり。
後嵯峨上皇が造った仙洞御所の池に大井川(保津川)の水を引き入れようと、大井川沿いの住民に命令し、水車を作らせた。お金をたくさん使い、数日間水車を動かしてみたところ、ほとんど水車が回らない。いろいろ直してみたけれども、ついに回ることはなく、やむなくそのままにしたという。
さて、宇治の里人を召して、こしらへさせられければ、やすらかに結ひて参らせたりけるが、思ふやうに廻りて、水を汲み入るゝ事めでたかりけり。
そこで宇治の住民にお願いして水車をこしらえてもらうと、気持ちよく応じてくれて、思うように水車は回り、水を池に組み入れることが目出度くできるようになった。
万に、その道を知れる者は、やんごとなきものなり。
すべての事に言えることだ。その道に通じた者は大事な存在だ。
一時期、毎年暮れになると姉の家に餅つきに行っていた。姉は前日から張り切って準備していた。もち米を張り、一晩置いていた。私が行くと部屋の中がすでに暖かだった。竈には薪がくべられ、竈の上の釜からは湯気が上がっていた。
隣には臼が据えられ、杵が置いてある。臼の中は綺麗に拭かれていた。私が杵に手をかけると「じゃーいいかい」と姉は言うと、釜の上の蒸篭を一つ持ち上げ、臼の中に入れる。蒸篭を片付け、私の隣に来て、腰をかがめる。私は力を込めて臼を頭の上に持ち上げ、臼めがけて振り下ろす。臼を私が振り上げると姉は臼の中の熱いもち米をこね取りをする。また私は力を出して臼を振り上げ、振り下ろす。餅や竈、蒸篭の湯気で真冬だというのに、汗が額に噴き出てくる。
一臼搗くのに20回ぐらい、杵を振り下ろす。もう少し多かったかもしれない。そのたびごとに姉は臼の中に手を入れて、こね取りをする。大変な労働だ。私の家の餅は一臼のみだ。私の餅つきは10臼続く。姉は当然のことだと言わんばかりに遠慮することなく、思う存分、私を使い切る。
私はもともと頑健な身体の持ち主ではない。どちらかというと力は弱いほうだ。疲れ切ると少し、休ませてもらう。それでも姉は一時も休むことなく、体を動かし続ける。草臥れることがないのだろうかと不思議に思うほどである。
7、8年、餅つきに姉の家に通ったが、甥っ子が私に代わって餅つきをするようになって、私はこの厳しい労働から解放された。甥っ子は私より頑健な身体の持ち主だった。私より遥かに楽々と餅つきをしているようだ。
子供だった頃、餅つきは年間行事の一つだった。12月28日が餅搗きの日だった。台所には熱気があふれていた。男衆(おとし)さんが手伝いに来てくれた。私は大根おろしを手伝うのが習わしだった。搗き上がったばかりの餅を大根おろしの中に入れ、醤油をかけて食べるのが美味しかった。
いつ頃からか、餅つきは年間の行事ではなくなり、私一人が姉の家に行き、手伝うようなっていた。搗いてもらう餅の方が安上がりになったと言うことかもしれない。そういうことから次のよう諺が生れたのかもしれない。
「餅は餅屋に」頼む方が美味しい餅が食べられるということが常識になり、諺となり、江戸いろは歌留多に取り上げるまでに江戸時代にはなっていた。餅つきは準備が大変である。餅つきそのものが重労働である。後片付けが面倒である。餅には黴が生える。黴が生えないように水餅などにする。保存もまた面倒である。乾燥させた餅を油で揚げ、塩を振って、食べる。美味しいものだった。昔の人にとって餅はご馳走であるが故に餅に関する文化が生まれたくらいだ。だから餅屋が誕生した。「餅は餅屋」。専門家に任せたほうが美味しい餅が食べられるということがすでに江戸時代にはできていた。