醸楽庵(じょうらくあん)だより 

主に芭蕉の俳句、紀行文の鑑賞、お酒、蔵元の話、政治、社会問題、短編小説、文学批評など

醸楽庵だより   1232号   白井一道

2019-10-31 11:53:39 | 随筆・小説



   徒然草60段『真乗院に、盛親僧都とて、やんごとなき智者ありけり』


 真乗院に、盛親僧都とて、やんごとなき智者ありけり。芋頭といふ物を好みて、多く食ひけり。談義の座にても、大きなる鉢にうづたかく盛りて、膝元に置きつゝ、食ひながら、文をも読みけり。患ふ事あるには、七日(なぬか)・二七日(ふたなぬか)など、療治とて籠(こも)り居て、思ふやうに、よき芋頭を選びて、ことに多く食ひて、万の病を癒しけり。人に食はする事なし。たゞひとりのみぞ食ひける。極めて貧しかりけるに、師匠、死にさまに、銭二百貫と坊ひとつを譲りたりけるを、坊を百貫に売りて、かれこれ三万疋を芋頭の銭と定めて、京なる人に預け置きて、十貫づつ取り寄せて、芋頭を乏しからず召しけるほどに、また、他用に用ゐることなくて、その銭皆に成りにけり。「三百貫の物を貧しき身にまうけて、かく計らひける、まことに有り難き道心者なり」とぞ、人申しける。

 仁和寺真乗院に盛親僧都(じょうしんそうづ)という立派な学僧がいた。里芋の親芋が好きでたくさん食べた。経典の講義の時にも大きな鉢に山盛りに盛り膝元に置いて、食べながら経典を読んでいた。患うことがある場合は、七日間、十四日間を治療と決め、療養の間は自室に籠り、思うように良い芋頭を選んで殊にたくさん食べて万病を癒した。人に芋頭を食べさせることはしなかった。ただ自分一人だけで食べていた。盛親僧都はきわめて貧しかったので師匠は亡くなられた時に銭二百貫と僧房の一室とを盛親僧都に譲ったところ、坊を百貫で売り、かれこれ三万疋を芋頭の銭にして、京にいる人に預けて十貫づつ取り寄せては芋頭を求め、芋頭が乏しくなることもなく、食べ続けた。また他にお金を使うこともなく、その銭はすべて皆芋頭にあてられた。「三百貫もの大金を貧しき身として受け取り、すべて芋頭にあてた。まことに珍しい道心者だ」ことと人々は言った。

 この僧都、或法師を見て、しろうるりといふ名をつけたりけり。「とは何物ぞ」と人の問ひければ、「さる者を我も知らず。若しあらましかば、この僧の顔に似てん」とぞ言ひける。

 この僧都は或る法師を見て、「しろうるり」というあだ名をつけた。「しろうるり」とは何者かと人が問うと「そのような者を私も知らない。もしあったとしたならば、この僧の顔に似ていよう」と言った。

 この僧都、みめよく、力強く、大食にて、能書・学匠・辯舌、人にすぐれて、宗の法燈(ほふとう)--なれば、寺中にも重く思はれたりけれども、世を軽く思ひたる曲者にて、万自由にして、大方、人に従ふといふ事なし。出仕して饗膳などにつく時も、皆人の前据ゑわたすを待たず、我が前に据ゑぬれば、やがてひとりうち食ひて、帰りたければ、ひとりつい立ちて行きけり。斎・非時も、人に等しく定めて食はず。我が食ひたき時、夜中にも暁にも食ひて、睡たければ、昼もかけ籠りて、いかなる大事あれども、人の言ふ事聞き入れず、目覚めぬれば、幾夜も寝ねず、心を澄ましてうそぶきありきなど、尋常ならぬさまなれども、人に厭はれず、万許されけり。徳の至れりけるにや。

 この僧都は顔立ちがよく、力持ち、大食漢で、字が上手で、学識があり、弁舌に優れ、人より優れ、真言宗の重鎮であるから仁和寺の中では重視されていたが、世間を見くびる曲者でもあった。勝手気ままで人の言うことに従うことがない。法会や仏事に出席して饗応の膳に着いた時も一同の前にすっかり膳が並べ終わるのを待たないで自分の前に据えられたなら、一人で食べ始める。帰りたくなれば一人立ち上がり帰る。僧として決められた時間の食事も、そうではない時の食事も人と同じように一緒にそろって食べるということがない。自分が食べたいときには夜中でも夜明けでも食べる。眠たければ昼間であっても自分の部屋に籠って寝る。いかなる大事があろうとも人の言うことを聞かない。目が覚めてしまえば、幾夜も寝ずに心を澄まし、詩歌を吟じ歩くなど尋常な状況ではないのに人には嫌われずにすべての事が許されている。これは僧都の徳が施行の域に達していたからなのだろうか。

 『徒然草六十段』を読み、漫画・映画『釣りバカ日誌・新入社員浜崎伝助』を思い出した。心底善人の人は皆から受け入れられるということか。