徒然草37段 『朝夕、隔てなく馴れたる人の』
朝夕、隔(へだ)てなく馴(な)れたる人の、ともある時、我に心おき、ひきつくろへるさまに見ゆるこそ、「今更、かくやは」など言ふ人もありぬべけれど、なほ、げにげにしく、よき人かなとぞ覚ゆる。
朝晩、分け隔てなく親しくしている女(ひと)が、何かの折に私に改まって気配りをしている様子が見えることほど「今更、こんなことまでしなくても」などと言う人もいるだろうけれども、それでもなお実に実に誠実な良い女(ひと)だと思われる。
疎(うと)き人の、うちとけたる事など言ひたる、また、よしと思ひつきぬべし
普段それほど親しくしていない女(ひと)がうちとけて話してくることも、また良いことだなと思いついたことがある。
この兼好法師の文章を読み、「親しき仲にも礼儀あり」という諺を思った。人間関係は礼儀によって保たれているということを改めて思う。英語では同じようなことを「A hedge between keeps friendship green.」(間に垣根があると友情は生き生きと保たれる)、Love your neighbor, yet pull not down your hedge.(あなたの隣人を愛せよ。しかも生垣を取り払うな)というようだ。人間関係は間に垣根を設けることが生き生きした人間関係が持続するという教えのようだ。
親子の関係も友人関係、職場の同僚関係、また職場の上下関係にあっても礼儀と言う垣根があることによって生き生き人間関係が持続するという事のようだ。
礼儀とは垣根であり、独立した人間と人間との間の隔たりということのようだ。礼儀とは挨拶に始まる。挨拶することが人間関係の始まりである。
新しく職場に入って来る若者は挨拶ができないという話を聞く。今に始まったことではない。今から50年前の若者も満足な挨拶ができないと言われていたように思う。社会に出たての若者は挨拶に恥ずかしさのようなものを感じるからのようだ。挨拶することは自分をさらけ出すような気分になるが故にきちんとした挨拶ができないようだ。ある意味、挨拶とは自分の存在を相手に曝す営みのような側面が確かにある。ちっぽけなつまらない人間ですと相手に申し述べる営みが挨拶のようにも思う。子供が大人になる関門が挨拶にある。挨拶できる人間になって初めて大人の社会に入ることができる。
大人の社会の人間関係は一人一人が自立した人間関係として成立している。自立した人間が他者との関係を取り結ぶ営みが挨拶から始まる。挨拶が礼儀の始まりだった。古代日本の首長たちは荒れ狂う玄界灘を乗り越えて中国の王朝に土産を持って挨拶に行き、倭の国の王として認めて貰おうとした。こうした冊封関係を取り結ぶことによって倭国の王たちは自分の権威を中国漢王朝の皇帝に認めて貰うことよって権威を獲得しようとした。
挨拶できる人間になることが自立した人間になる第一歩のようだ。挨拶とは自分と他者との間には垣根があるということを自覚することでもある。相手の存在を受け入れることによって自分の存在をも相手にうけいれていただくことが挨拶のようだ。挨拶が人間関係を築いていく土台になっている。人間関係の土台を表現した言葉が「親しき仲にも礼儀あり」のようだ。