醸楽庵(じょうらくあん)だより 

主に芭蕉の俳句、紀行文の鑑賞、お酒、蔵元の話、政治、社会問題、短編小説、文学批評など

醸楽庵だより   1213号   白井一道

2019-10-12 06:19:17 | 随筆・小説



    徒然草41段  『五月五日、賀茂の競べ馬を見侍りしに』



 五月五日、賀茂の競べ馬を見侍りしに、車の前に雑人立ち隔てて見えざりしかば、おのおの下りて、埒のきはに寄りたれど、殊に人多く立ち込みて、分け入りぬべきやうもなし。

 五月五日、上加茂神社恒例の競馬を見物しに行ったところ、私の乗って行った牛車の前に下賤な者が立ちふさがって見ることができない。牛車に同乗していた者が各々降りて、馬場の柵のそばまで近づいたが、殊に人多く込み合っている。分けて入る術もない。
 
 かかる折に、向ひなる楝の木に、法師の、登りて、木の股についゐて、物見るあり。取りつきながら、いたう睡りて、落ちぬべき時に目を醒ます事、度々なり。これを見る人、あざけりあさみて、「世のしれ物かな。かく危き枝の上にて、安き心ありて睡るらんよ」と言ふに、我が心にふと思ひしまゝに、「我等が生死の到来、ただ今にもやあらん。それを忘れて、物見て日を暮す、愚かなる事はなほまさりたるものを」と言ひたれば、前なる人ども、「まことにさにこそ候ひけれ。尤も愚かに候ふ」と言ひて、皆、後を見返りて、「こゝに入らせ給へ」とて、所を去りて、呼び入れ侍りにき。

 このような時に、向こう側の楝(あうち)の大木に法師が登り、木の股に座り、見物している。木につかまりながらぐっすり眠っているようだ。落っこちそうになると目を覚ますこと、たびたびあった。これを見ていた人々があざけり軽蔑して「世にも稀な愚か者、これほど危険な枝の上で安心して居眠りしているよ」と言っている。この言葉を聞き、私はふと思ったままに「私たちの生死の到来は今すぐなのかもしれませんよ。それを忘れて競馬を見て日を過ごす。愚かなことをしているのは私たちの方かもしれませんよ」と言うと、前にふさがっていた人々が「誠にそのとおりだ。私たちの方こそが愚愚かなのかもしれません」と言って、皆、後ろを見返して、「ここにいらっしてください」と場所をあけて、呼び入れてくれた。

 かほどの理(ことわり)、誰かは思ひよらざらんなれども、折からの、思ひかけぬ心地して、胸に当りけるにや。人、木石にあらねば、時にとりて、物に感ずる事なきにあらず。

 このような道理、誰も思いつかなかったようだけれども、折からの思いがけぬ話に心打たれたようだ。人間は、木や石でない以上、時に物を感じることがないということはない。


 14世紀前半、鎌倉幕府が滅亡し、建武の新政があった頃、『徒然草』は書かれていると言われている。この時代、公家と言われていた人々や武家と言われていた人々にとって、額に汗をかき、一日中泥まみれになって田や畑、山、海で働く人々は同じ人間ではなく、動物に近い存在であった。無知蒙昧、言葉を話す動物以外のなにものでもなかった。それらの人々にとって手の汚れていない人々、文字が読める人々は高貴な別世界に生きる人々であった。下賤な人々にとって敬わずにはいられない人々であった。
 無知蒙昧な下賤な人々と高貴な人々が同じ場所に同時に存在した場所が京都、上賀茂神社の馬場であった。兼好法師一行は牛車に乗って上賀茂神社恒例の競べ馬競技見物に出かけた。そこにはすでに無知蒙昧な下賤な人々が競べ馬競技場を取り囲んでいた。
 高貴な人々の一人であった文字の読み書きの出来る兼好法師が下賤な人々の群れに入り、その場所で新しい発見をした話が『徒然草第41段』である。兼好法師が発見したことは無知蒙昧な下賤な人々にも高貴な文字の読み書きができる人々と同じようなものの見方ができることであった。人間の命が永遠なものではなく、いつ亡くなるか分からないものであるということであった。その無常観が伝わったことに兼好法師は驚いたのであろう。