醸楽庵(じょうらくあん)だより 

主に芭蕉の俳句、紀行文の鑑賞、お酒、蔵元の話、政治、社会問題、短編小説、文学批評など

醸楽庵だより   1231号   白井一道

2019-10-30 10:24:09 | 随筆・小説



   徒然草59段  『大事を思ひ立たん人は、去り難く、』




 大事を思ひ立たん人は、去り難く、心にかゝらん事の本意を遂げずして、さながら捨つべきなり。「しばし。この事果てて」、「同じくは、かの事沙汰しおきて」、「しかしかの事、人の嘲りやあらん。行末難なくしたゝめまうけて」、「年来もあればこそあれ、その事待たん、程あらじ。物騒がしからぬやうに」など思はんには、え去らぬ事のみいとゞ重なりて、事の尽くる限りもなく、思ひ立つ日もあるべからず。おほやう、人を見るに、少し心あるきはは、皆、このあらましにてぞ一期は過ぐめる。

 出家を思い立った人は、捨て去り難いしがらみや心に引っかかっていることをやり遂げることなく、そのままそれらの事を捨て去るべきだ。「しばし、この事をやり遂げて」、「同じように、かの事を途中のまましおきて」、「しかしかの事について人は嘲るかもしれない。行く末を難なくしたためた上で」、「何年も前からであればこそだろう、その事が実現することを待つことのほどじゃない。大騒ぎをしないように」などと思うことはこの世のしがらみを捨て去れないことが重なって、やらなければならない事が尽きる限りもなくなり、出家する日が来ることがなくなる。大方、人を見るに出家する気持ちのある方々は、皆、このような時期を経験することになる。

 近き火などに逃ぐる人は、「しばし」とや言ふ。身を助けんとすれば、恥をも顧みず、財をも捨てて遁れ去るぞかし。命は人を待つものかは。無常の来る事は、水火の攻むるよりも速かに、遁れ難きものを、その時、老いたる親、いときなき子、君の恩、人の情、捨て難しとて捨てざらんや。

 近所の火事で逃げる人は「ちょっと待て」などと言うだろうか。身を助けようとすれば、恥をも顧みずに家の財をもためらうことなく捨て去って逃げ去るじゃないか。命は人を待ってくれるものなのだろうか。無常なる時間は水や火が襲ってくるよりも速く逃れ難きものだ。その時、老いたる親、幼い子供、主君の恩、人の情など捨て難いからと言って捨てないでいることができるのだろうか。

 すがる娘を蹴落として西行は出家したと言われている。出家した西行は次のような歌を詠んでる。
 「世にあらじと思ひたちけるころ、東山にて、人人、寄霞述懐と云ふ事をよめる」と前詞が『山家集』にある。
 「そらになる 心は春の かすみにて 世にあらじとも 思ひ立つかな」
 春の霞のように虚空になりたいこころが漂っている。わたしはこの世を出ようと思い立つのだ。
 「山家集の詞書に、「世にあらじと思立ちけるころ、東山にて人々、寄霞述懐と伝事をよめる」とあるから、西行が23歳で出家する直前の作だろう。いかにも若者らしいみずみずさにあふれているとともに、出家のための強い決心を表しているが、誰もこのような上の句から、このような下の句が導きだされるとは、思ってもみなかったに違いない。それが少しも不自然ではなく、春霞のような心が、そのまま強固な覚悟に移って行くところに、西行の特徴が見出せると思う。その特徴とは、花を見ても、月を見ても、自分の生き方と密接に結びついていることで、花鳥風月を詠むことは、彼にとっては必ずしも楽しいものではなかった。(白洲正子「西行」より)
 西行はこの世に存在している自分、この自分の存在それ自体が苦しみであった。生きることが苦しくて苦しくてたまらなかった。存在の苦しみからの解放が出家だった。滅び行く古代天皇制に仕えた者は生きること自身が苦しみ以外の何物でもなかった。自分の存在が誰からも受け入れられるものであったなら、きっと西行の苦しみはなかった。存在の否定を日々、これでもか、これでもかと否定され続ける時代が平安末期から鎌倉初期の時代である。この時代に西行は生きた。武家政権が古代天皇制権力に取って代わろうとしていた時代である。この時代、天皇制権力側に身を置く者にとっては滅ぼされ、存在を否定される者であった。そのことを敏感に感じていた西行はこの世の存在であることから逃れたかった。だから次のような歌を詠んだ。
 「よをのがれけるをり、ゆかりありける人のもとへいひおくりける」と書きて
 「世のなかをそむきはてぬといひおかんおもひしるべき人はなくとも」
 世の中に背き果てたと言っておこう。私の思いを知る人はいなくともと。