醸楽庵(じょうらくあん)だより 

主に芭蕉の俳句、紀行文の鑑賞、お酒、蔵元の話、政治、社会問題、短編小説、文学批評など

醸楽庵だより   1220号   白井一道

2019-10-19 10:27:15 | 随筆・小説



    徒然草48段 『光親卿、院の最勝講奉行してさぶらひけるを、』


 
 光親卿(みつちかのきやう)、院の最勝講奉行(さいしょうきやうぶぎやう)してさぶらひけるを、御前(ごぜん)へ召されて、供御(ぐご)を出だされて食(く)はせられけり。さて、食ひ散らしたる衝重(ついがさね)を御簾(みす)の中へさし入れて、罷(まか)り出(い)でにけり。女房、「あな汚な。誰(たれ)にとれとてか」など申し合はれければ、「有職(いうしよく)の振舞、やんごとなき事なり」と、返々(かへすがへす)感ぜさせ給ひけるとぞ。

 藤原光親卿は後鳥羽上皇のおられた仙洞御所において最勝講の奉行の役をしていると、御前のところへ行くよう促され、御膳を出されて、ご馳走になった。さて、食い散らかした御膳を御簾の中にさし入れて出てこられた。女房たちは「まぁー汚いこと、誰に片付けよと言うのかしらと」と言い合っていると上皇は「これこそ故実をわきまえた振る舞い、立派なものだ」と返すがえすも感心したということである。

 特攻兵たちの「最後の晩餐」は食い散らかし、最後はすべて食器を壊し、酒を飲み尽くし、歌を吠え尽くすどんちゃん騒ぎをして終わったという。興奮した精神の絶頂状態を維持することによって肉弾戦が実現した。人間を死に追いやる残酷な作戦が今も昔も行われていたということを『徒然草48段』を読んで思った。
 軍神として崇められる裏には残酷な儀式があった。
藤原光親は承久の乱において斬首されている。藤原光親について『ウィキペディア(Wikipedia)』は次のように説明している。
「光親は後鳥羽院の側近として年預別当や、順徳天皇の執事、近衛家実や藤原麗子の家司なども務めた。
承久3年(1221年)に承久の乱が起こると、光親は北条義時討伐の院宣を後鳥羽院の院司として執筆するなど、後鳥羽上皇方の中心人物として活動。しかし実際は上皇の倒幕計画の無謀さを憂いて幾度も諫言していたが、後鳥羽上皇に聞き入れられることはなかった。
光親は清廉で純潔な心の持ち主で、同じく捕らえられた同僚の坊門忠信の助命が叶ったと知った時、心から喜んだといわれるほど清廉で心の美しい人物だったという。『吾妻鏡』によれば、光親は戦後に君側の奸として捕らえられ、甲斐の加古坂(現在の籠坂峠、山梨県南都留郡山中湖村)において処刑される。享年46。処刑の直前に出家して西親と号する。甲斐源氏の一族・武田信光は光親を鎌倉へ連行する途中・駿河国車返の付近で鎌倉使の命を受け、光親を斬首した。
北条泰時はその死後に光親が上皇を諌めるために執筆した諫状を目にし、光親を処刑した事を酷く悔やんだという。ただし、院宣の執筆行為と伝奏として院宣発給の事実を太政官に連絡し、それを元にして太政官においても義時追討の官宣旨が作成されていることから、公家の中でも最も重い罪に問われたと考えられている」。
この承久の乱によって最終的に古代天皇制権力は崩壊し、明治維新になるまで武家政権が存続することになる。このことは同時に日本の古代社会は崩壊し、中世封建制社会が不動の体制になったということを意味している。
源頼朝が御家人制度を作り上げ、日本の中世封建制度の基盤をつくったが日本全国を網羅することはなかった。源氏政権が成立し、北条政権が成立するまでの時期は日本の古代社会が崩壊し、中世封建社会が成立する過渡期だ。
日本の古代社会は点と線を支配した国家であったが、中世社会になると面的な広がりを支配する国家が成立してくる。それが封建社会であった。兼好法師が生きた時代は日本の封建社会が生成してくる時代であった。滅びゆく古代天皇制権力は実質的な政治権力を失い、権威としての天皇の位のみが存続するようになっていく。
時代の変化はそれ以前の社会と比べると速くはなったが、後の時代と比べると遅々としていた。時代の変化は時代と共に加速度的に速くなっていくようである。現代社会は兼好法師が生きた時代とは比べ物のないほど、速い。
時代の変化を鋭く感じていた兼好法師はその思いを書き残しているのではないかと私は考えている。後鳥羽上皇が政治権力を失っていく過程での話が『徒然草48段』だと思う。