醸楽庵(じょうらくあん)だより 

主に芭蕉の俳句、紀行文の鑑賞、お酒、蔵元の話、政治、社会問題、短編小説、文学批評など

醸楽庵だより   1385号   白井一道

2020-04-19 11:30:13 | 随筆・小説



   
 徒然草第211段 万の事は頼むべからず

原文
 万の事は頼むべからず。愚かなる人は、深く物を頼む故に、恨み、怒る事あり。勢ひありとて、頼むべからず。こはき者先づ滅ぶ。財(たから)多しとて、頼むべからず。時の間に失ひ易し。才ありとて、頼むべからず。孔子も時に遇(あ)はず。徳ありとて、頼むべからず。顔回(がんくわい)も不幸なりき。君(きみ)の寵(ちやう)をも頼むべからず。誅を受くる事速かなり。奴(やつこ)従へりとて、頼むべからず。背き走る事あり。人の志をも頼むべからず。必ず変ず。約をも頼むべからず。信ある事少し。
 身をも人をも頼まざれば、是〈ぜ〉なる時は喜び、非なる時は恨みず。左右(さう)広ければ、障らず、前後遠ければ、塞(ふさ)がらず。狭き時は拉(ひし)げ砕(くだ)く。心を用ゐる事少しきにして厳しき時は、物に逆ひ、争ひて破る。緩(ゆる)くして柔かなる時は、一毛も損せず。
 人は天地の霊なり。天地は限る所なし。人の性(しやう)、何ぞ異ならん。寛大にして極まらざる時は、喜怒これに障らずして、物のために煩はず。

現代語訳 
 どのような事であっても人頼みにしてはならない。愚かな人はひたすら人頼みするから恨み、怒ることがある。権勢があったとしても人頼みにしてはならない。強力を誇るものは先ず滅ぶ。財産があるからと言って頼りにはならない。瞬く間に失われやすい。才覚があるからと言って頼りにはならない。孔子でさえ時勢に乗じて世に用いられるとはなかった。人徳があったとしても頼りにはならない。顔回(がんくわい)でさえも不幸であった。主君の寵愛も当てにならない。主君の怒りに合えばたちまち罪を負って殺されることがある。奴僕が従っているからといって頼りにはならない。背むいて逃げることがある。人の厚意も当てにならない。必ずと言っていいほど気持ちは変わる。約束したことも頼みに足るものではない。信義ある事は少ない。
 我が身のことも他人の事をも人頼みすることがなければ、上手くいったときは嬉しく、駄目であっても人を恨むことはない。左右が広ければ妨げがない。前後が広ければ詰まってしまうことがない。狭い時はつぶれ砕けてしまう。心配りが足りなく厳格にすると何かと逆らいが起き、争い傷つく。余裕を持ち柔軟に対応すれば体の一本の毛も傷つけることはない。
 人間は万物の霊長である。天地は無限である。人間の本性も、また天地の無限性となんら変わる所はない。寛大であって極まることがないなら、たとえ喜びや怒りが起きたとしてもこの広大な本性の邪魔になることはない。


 自律し、自立するということ  白井一道
 男に媚を売る女がいる。媚は売っても体は売らないという女がいる。体は売っても心は売らないという女がいる。体は多少汚れたとしても心は清浄だと主張する女がいる。
 勿論、立派に自律し、自立している女性がいる一方で女に媚を売る男がいる。更に男が男に媚を売ることがある。財務省の高級官僚と云われた男たちは「森友学園」問題において男が男に媚を売った事件だったのではないかと私は見ている。「忖度する」とは、媚を売ることであった。媚を売った結末は悲惨なものになった。媚を売ることを潔しとしなかった財務省下級役人は自律し、自立して生きようとすることを妨害され、財務省高級役人に絶望し、自死する道を強制された。死に至る病とは絶望なのだ。絶望した人間は生きることができないのだ。「絶望とは自己の喪失である」ともキュルケゴールはその著『死に至る病』の中で述べている。
 財務省高級官僚と云われている役人たちは自律し、自立して生きている人々なのだろうか。「君(きみ)の寵(ちやう)をも頼むべからず。誅を受くる事速かなり。奴(やつこ)従へりとて、頼むべからず。背き走る事あり。」と『徒然草』の中で兼好法師は述べている。
 800年前の日本社会においても自律し、自立して生きることがいかに困難なことであったのかを思い知る。自分は自分である。これをアイデンティティーと言う。社会の中にあって自分が自分でいるということが難しいということのようだ。だから大半の人々は自分を胡麻化して生きているのかもしれない。自分を胡麻化し続けることができなくなった時に死に至るのかもしれない。

醸楽庵だより   1384号   白井一道

2020-04-18 09:49:02 | 随筆・小説



   
 徒然草第210段 喚子鳥は春のものなり



原文
 「喚子鳥(よぶこどり)は春のものなり」とばかり言ひて、如何なる鳥ともさだかに記せる物なし。或真言書の中に、喚子鳥鳴く時、招魂(せうこん)の法をば行ふ次第あり。これは鵺(ぬえ)なり。万葉集の長歌に、「霞立つ、長き春日の」など続けたり。鵺鳥も喚子鳥のことざまに通いて聞ゆ。

現代語訳 
 「喚子鳥(よぶこどり)は春のものなり」とだけ言って、どのような鳥だともはっきり説明したものはない。ある真言宗の書物に喚子鳥(よぶこどり)が鳴く時は招魂(せうこん)の法を行う手続きが書いてある。この場合の喚子鳥(よぶこどり)は鵺(ぬえ)のことである。万葉集の長歌に「霞立つ、長き春日の」などと続けて謡われている。これから考えてみると鵺鳥(ぬえどり)も喚子鳥(よぶこどり)のことを言っているようにも感じられる。

 万葉集から     白井一道
 「讃岐国安益郡(あやのこほり)に幸(いでま)せる時、軍王(いくさのおほきみ)の山を見てよみたまへる歌」と題する長歌として、
霞経つ長き春日の 暮れにける わづきも知らず 村肝(むらぎも)の 心を痛み 鵺子鳥(ぬえこどり) うらなけ居れば 玉襷(たまだすき) 懸(か)けのよろしく 遠つ神 わご大君の 行幸(いでまし)の 山越す風の 独り居る わが衣手(ころもで)に 朝夕(あさよひ)に 返らひねれば 丈夫(ますらを)と 思へるわれも 草枕(くさまくら) 旅にしあれば 思ひ遣(や)る たづきを知らに 網(あみ)の浦の 海処女(あまをとめ)らが 焼く塩の 思ひそ焼くる わが下ごころ

 現代語訳
 霞立つ長き春日が暮れていくように、理由もなく心が痛み、鵺鳥のように泣いていると、美しい襷を懸けるように遠き神であられるわが大君のいらっしゃる山を越えて、風が、独り居る私の袖を朝夕にひるがえらせるので、立派な男子と思っていた私も草を枕の旅にあって憂いを晴らす術も知らずに、網の浦の、海の海女(あま)処女たちが焼く塩のように、(家に残した妻を思って)心が焼けているよ。私の心の中は。

 この歌は、舒明天皇(じょめいてんわう)が讃岐国安益郡(現在の香川県綾歌群)に行幸された時に、従駕した軍王(いくさのおほきみ)が詠んだとされる長歌です。
実際には舒明天皇が讃岐国安益郡に行幸されたとする記録はないのですが、この歌につけられた反歌の左注によると、〔山上憶良大夫(やまのうへのおくらのめへつきみ)の類聚歌林(るいじうかりん)に曰く「記に曰く『天皇十一年己亥(きがい)の冬十二月己巳(きし)の朔(つきたち)の壬午(じんご)、伊予の温湯(ゆ)の宮に幸(いでま)す云々』といへり。」〕とあるので、このとき道後温泉に行幸した帰りに讃岐国安益郡にある国府に立ち寄ったのではないかと思われます。
軍王(いくさのおほきみ)については詳しいことはなにも伝わっていないのですが、百済系王族の渡来人という説もあるようです。
この歌ではそんな天皇の行幸に従った軍王が、山を越えて吹き来る風に心をかき乱される不安を鎮めようとして祈りの歌を詠っています。
「丈夫(立派な男子)と思っていた自分が憂いを晴らす術も知らずに、海の海女(あま)処女たちが焼く塩のように、(家に残した妻を思って)心が焼けています」と、家に残してきた妻を思うことでその心の不安を鎮めようとしているわけですね。
この長歌自体には「妻」とは詠われていませんが、長歌の内容を集約した次の反歌で家に残してきた妻に心を寄せることで不安を抑えようとしていることがはっきりと詠われます。
この後、他の歌でもたびたび出てきますが、この時代の旅する者は独り寝の寂しさに心が散って消えてしまわないようにと家に残してきた妻を一心に思って歌を詠み、その心の不安や動揺を鎮めようとしました。
同時に、家にいる妻も、旅先の夫の無事を祈って、旅先の土地や道々の神や精霊に夫を守ってくれるようにとの祈りの歌を詠みました。
万葉集に出てくるこれらの歌は、妻と夫が祈りの歌を詠み、家を守ろうとした。解説 黒路よしひろ

醸楽庵だより   1383号   白井一道

2020-04-17 12:57:36 | 随筆・小説



    徒然草第209段 人の田を論ずる者


原文
 人の田を論ずる者、訴へに負けて、ねたさに、「その田を刈りて取れ」とて、人を遣しけるに、先づ、道すがらの田をさへ刈りもて行くを、「これは論じ給ふ所にあらず。いかにかくは」と言ひければ、刈る者ども、「その所とても刈るべき理なけれども、僻事せんとて罷る者なれば、いづくをか刈らざらん」とぞ言ひける。
理、いとをかしかりけり。

現代語訳 
 他人の田を訴訟して取り上げようとする者が訴訟に負けて、悔しさのあまり「あの田の稲を刈り取って来い」と、人を遣わしたところ、まず、途中の田の稲をさえも刈り取っていくのを「これはあなた方のご主人が争っておられる田ではない。なぜそのような事をするのか」と言うので、刈り取っている者どもが「あの訴訟で争った所の田の稲も刈り取ってよい道理はないけれども、私たちはどうせ道にはずれたことをしようと出かけるのであるから、どこの田の稲であっても刈り取らないことがあろうか」と言われた。
 その理屈、とても面白かった。

 「森友問題の本質」とは    白井一道
 9億円以上もする土地を8憶円も値引きして売り払ったという極単純な事件が森友事件の本質である。なぜこのようなことができたのかといえば、その土地が国有地であったからである。売り払った人間がもし自分の土地であったなら決してこのようなことをするはずがない。国有地の売買を担当する権限を持った人間であるが故に9憶円もする土地を8憶円も値引きして売り払うことができた。
 国有地を売り払う権限を持った人間がいくらなら支払うことができるのかと土地購入希望者に尋ね、その価格で国有地購入希望者に売り払う契約をした。問題はなぜこのようなことが起きたのかということである。平常なことであるなら、絶対に起きるはずのない出来事がなぜ起きたのかと、いうことに問題の本質がある。その前にこのような異常事態が起き得る可能性がなければ「森友問題」は起きなかった。その可能性とは、国有地であるならいくらで売っても心が痛むことがないという公務員がいるということである。公務員としての倫理観を失った公務員がいるということである。国民から負託された倫理観を持たない公務員がいるということである。その最たる人間がどうも最高権力者としての公務員、総理大臣のようだ。
 財務省の高級官僚と云われる役人たちは内閣に仕える公務員だと自覚しているようだ。総理大臣に仕えるために財務省の高級官僚たちが9憶円する国有地を8憶円値引きして売り払う契約をした。これが総理大臣に仕える高級官僚がしたことである。高級官僚たちは総理大臣には仕えてはいたが、国民に対して仕えることはなかった。国民からの信頼に応えることはなかった。国民からの信頼を裏切っても心が痛むことがなかった。国民の富を私的に流用してしまったことが明かるに出ても、その事に対して心が痛むことがない。その最たる人間が総理大臣であった。それどころか、総理のためと思ってしたことを処分したことによって問題は解決したと涼しい顔をしている総理がいる。「森友問題の本質」とは、国民の富を総理が私的に流用してしまったという事であるにもかかわらずにそのような自覚が総理には一切ないどころか、自分に仕えた高級官僚たる財務官僚を処分したと胸を張る。
 国民の信頼を裏切っても心が痛まないのが内閣を作る政治家たる公務員と高級官僚たちのようだ。このよう政治家と官僚に対して国民からの負託に応え、国民からの信頼に応えようと必死にもがき苦しんだのがノンキャリと言われる下級役人であったようだ。国有地をタダ同然の値段で売り払うことに抵抗を覚え、売り払った文書を都合が悪くなると改ざんするようキャリア官僚と云われる人々から強制され、国民からの信頼を失うことをすることに絶望した下級役人がいる。真っ当な公務員はノンキャリと言われる下級公務員に多く。政権与党の政治家やキャリア官僚と云われる高級官僚たちには国民の負託に応え、国民に奉仕する気持ちなどひとかけらほどもない。それに対して下級公務員の中には少しでも国民のために尽くそうとしている役人たちがいる。圧倒的に下級公務員によって日本国民の生活は守られているのかもしれないと感じさせる事件が「森友問題」であったように思う。

醸楽庵だより   1382号   白井一道

2020-04-16 11:37:49 | 随筆・小説


   
 徒然草第208段 経文などの紐を結ふに



原文
 経文などの紐を結ふに、上下(かみしも)よりたすきに交(ちが)へて、二筋(ふたすぢ)の中よりわなの頭(かしら)を横様に引き出(いだ)す事は、常の事なり。さやうにしたるをば、華厳院弘舜僧正(けごんゐんのこうしゆんそうじやう)、解きて直させけり。「これは、この比様(ごろやう)の事なり。いとにくし。うるはしくは、たゞ、くるくると巻きて、上(かみ)より下(しも)へ、わなの先を挟(さしはさ)むべし」と申されけり。
古き人にて、かやうの事知れる人になん侍りける。

現代語訳 
 お経の巻物などの表紙の紐を結ぶときに、上からと下からとぶっちがえに紐を交差させ、その交差している二本の紐を間から、紐の先端を横に引き出すのは通じうすることである。そのようにしてあったものを華厳院弘舜僧正(けごんゐんのこうしゆんそうじやう)は解いて直させた。「これはこの頃するようになったことである。とても醜い。正しくは終わりに巻いた紐の束の上から下へ向かって、紐の先端をさしはさむのがよい」と申された。
 華厳院弘舜僧正(けごんゐんのこうしゆんそうじやう)は昔の人であられてこのような事をご存じの方であられた。

 お経の翻訳    白井一道
  現代日本社会に広く流布しているお経の一つが『般若心経』である。先日、街中を歩いていると声をかけられた。見返ると初老の男が『般若心経』についての話をそこのお寺で午後一時からあります。「いかがですか」と呼び込みを受けた。南銀座通りである。飲食店、パチンコ屋、カラオケスタジオ、飲み屋が軒を連ねている。その通りで看板を掲げて『般若心経』講演の呼び込みがある。
 『般若心経』は現代社会に生きている。現代に生きる人間にとって『般若心経』には心に訴えるものがあるのだと私は感じた。『般若心経』には仏教の教えが簡潔に述べられているのであろう。現代社会に生きるものにとって命を守る教えのようなものが『般若心経』にはあるのだ。私は『般若心経』を今に伝えた人のことを思い出した。
 『般若心経』をサンスクリット語から漢訳したのは玄奘と鳩摩羅什の二人である。私たちが普段に聞くものは玄奘訳のものが多いようだ。玄奘は7世紀前半に生きた中国唐時代の人である。日本にあっては、法隆寺が創建され、金堂の釈迦三尊像が造立された時代である。そのころ中国にあっては隋王朝が滅び、唐王朝が成立する。玄奘は中原の都洛陽で生まれ、長安で仏教を学んでいた。玄奘は漢訳された経典での勉強に不満を覚え、直接原典に当たって学びたいという思いに駆られて、密出国してインドへと旅立っている。黄河中流に流れ込む支流渭水流域に位置する長安から徒歩でインドに旅立つ。河西回廊を経て高昌(こうしょう)に至る。高昌王である麴文泰(きくぶんたい)は、熱心な仏教徒であったので玄奘を金銭と人員の両面で援助した。玄奘は西域の商人らに混じって天山南路の途中から峠を越えて天山北路へと渡るルートを辿って中央アジアの旅を続け、ヒンドゥークシュ山脈を越えてインドに至った。この旅が『西遊記』という物語になった。
 仏教の神髄を極めたいという玄奘の情熱には若さがある。万巻の経典を馬の背に乗せ、砂漠ではラクダの背に経典を乗せ、玄奘は歩いて長安に帰り着いている。十数年の期間を経て、この大事業をやり遂げている。それからインドから運んできた仏教の経典をサンスクリット語から中国語に翻訳している。そのうちの一つが現代日本社会で流布している『般若心経』である。この経典は1400年も前の中国語で表現されているにも関わらずに現代日本語で『般若心経』を読み、読解している。なぜこのような事が可能なのかと言うと、漢字が表意文字であるからである。漢文は中国語を表現したものであるが、その漢文を日本語として読むことが可能なのだ。漢字は表意文字である事によって日本語としても朝鮮語としても、ベトナム語としても、チベット語としても読解が可能なのだ。
 今から1400年も昔の人である玄奘がサンスクリット語から中国語に翻訳した『般若心経』が現代に生きる日本人の心に届くものがある。なんと凄いことなのだろうと私は思う。
 日本を代表する画家の一人、平山郁夫氏の代表的な絵画の一つが玄奘に刺激され描かれたシルクロードを描いたものである。

醸楽庵だより   1381号   白井一道

2020-04-15 10:27:35 | 随筆・小説



  徒然草第207段 亀山殿建てられんとて



原文
 
 亀山殿建てられんとて地を引かれけるに、大きなる蛇(くちなは)、数も知らず凝り集りたる塚ありけり。「この所の神なり」と言ひて、事の由を申しければ、「いかゞあるべき」と勅問ありけるに、「古くよりこの地を占めたる物ならば、さうなく掘り捨てられ難し」と皆人申されけるに、この大臣、一人、「王土にをらん虫、皇居を建てられんに、何の祟りをかなすべき。鬼神はよこしまなし。咎(とが)むべからず。たゞ、みな掘り捨つべし」と申されたりければ、塚を崩して、蛇をば大井河に流してンげり。
 さらに祟りなかりけり。

現代語訳 
 亀山殿をお建てになろうとして地ならしをしたところ大きな蛇が数知らず凝り集まっている塚があった。「この土地の主たる神霊だ」と言って事の理由を話したところ、「どうしたものか」と天皇からのご下問があり、「昔からこの土地を占有している主であるなら、むやみに掘り捨てるわけにもいくまい」と皆が申していると、徳大寺実基大臣が一人「天皇の統治される国土に棲む虫が皇居を建てようとしていることに何の祟りがあろうか。神霊に邪心はない。咎めたててたたるはずがない。直ちに皆掘り起こし捨てるべきだ」と申されたので、塚を崩して蛇を大井河に流した。
 特に祟りはなかった。

 鬼門を避ける   白井一道
 鬼門とは北東の方角、裏鬼門は南西の方角を意味する。家相ではその方位に玄関や窓、トイレなどの水まわりを作ると、家の中に悪いことが起きるという。
 なぜ北東と南西の方角を、鬼門と裏鬼門と呼ぶのか。その源となったのは、古代中国の情勢と地形がある。当時の中国の都の北東と南西には強大な敵がいて、また南西からは強風が吹いてくるという状況があった。つまり鬼門は「外敵」と「強風」がやってくる方角であり、北東と南西の方角に開口部や水まわりを作らないようにしたのは、住む人の安全と健康を考えた、古代中国の生活の知恵だった。
 この考え方が日本に伝わり、当時日本で恐れられていた古の神道の 「丑寅(北東の意)の神」 と合わさって、日本でも北東と南西の方角が強く忌み嫌われるようになった。
ここで問題になるのが、日本列島の地形だ。日本列島は北東から南西に傾いていて、その背骨に山脈があり、その山に直交して川が流れています。つまり山も川も日本列島と同じように傾いている。水利を考えて川沿いに道や家を作れば、自然と家の配置も傾き、開口部は北東か南西、つまり鬼門や裏鬼門の方角を向くようになる。また最近の日本の住宅は、明るい南側にリビングや部屋を作る間取りが人気のため、水回りを北側にまとめるプランが多くある。そうなれば、トイレかお風呂か洗面所か、水回りのどこかが鬼門である北東の方角にかかる。
京都や東京、また大きな城下町は、当時の国家事業として風水を取り入れた造営している。道が正しく東西南北を向いていたり、鬼門に大きなお寺が作られている。しかし、小さな村や民間の造成地では、川に沿って道や家が作られることが多かったため、北東や南西の方角に開口部がある家が多い。
歴史学的に言えば、日本の鬼門は古代中国の生活の知恵と、日本の古の神道が入り混じって生まれたものだから、鬼門に玄関や窓、トイレなどの水回りを作ったからと言って、家の中に悪いことが起きるという根拠はどこにもない。
家相や風水にどこまでこだわるか? その答えを出すには、まずはそう言われる由来や意味を知った上で、それが本当に自分の家に必要なものなのかどうか、じっくり考える必要がある。日本の国土や住宅事情を考えれば、縁起かつぎ程度のスタンスでいるのがよい。
しかしそうは言っても、古の神道とは怨霊信仰が源になったものだから、特に理由はなくても何となく怖いという感覚を持つ人は多い。もし鬼門に不安を感じる、気になってしまうという場合は、鬼門対策をしておくといい。
「鬼門除け」。有名なところでは京都の都を鬼門から守るために比叡山に延暦寺が建てられた。
その方法は、北東の方角にある敷地の角の部分を切り取って祠を立てたり、鬼門除けのお札を張る。
    『家相の基礎知識』より

醸楽庵だり   1380号   白井一道

2020-04-13 10:51:20 | 随筆・小説


 徒然草第 206段 徳大寺故大臣殿


原文
 徳大寺故大臣殿(とくだいじのこおほいとどの)、検非違使の別当(べつたう)の時、中門にて使庁(しちやう)の評定(ひやうぢやう)行はれける程に、官人(くわんにん)章兼(あきかね)が牛放れて、庁の内へ入りて、大理の座の浜床(はまゆか)の上に登りて、にれうちかみて臥(ふ)したりけり。重き怪異(けい)なりとて、牛を陰陽師(おんやうじ)の許へ遣(つかは)すべきよし、各々申しけるを、父の相国聞き給ひて、「牛に分別なし。足あれば、いづくへか登らざらん。尫弱(おうじやく)の官人、たまたま出仕の微牛(びぎう)を取らるべきやうなし」とて、牛をば主に返して、臥したりける畳をば換へられにけり。あへて凶事(きようじ)なかりけるとなん。
「怪しみを見て怪しまざる時は、怪しみかへりて破る」と言へり。

現代語訳 
 徳大寺の右大臣が検非違使庁の長官であった時に徳大寺家の中門の廊の間で検非違使庁の事務の評決がおこなわれていた時に下級役人の牛車の牛が車から放れて庁内に入り込み、長官の座る浜床の上に登り反芻しては口を動かし横になった。重大な奇異な事だと牛を陰陽師(おんやうじ)のもとに連れて行き、占わせるべき旨を使庁の役人たちが検非違使庁の長官に告げたところ、父の長官は事情をお聞きになり、「牛には分別と言うものはない。足があれば、どことなり登ることがあろう。薄給の下級役人がたまたま仕事に出て来た時に使った痩せた牛を取り上げる理由はなかろう」と言い、牛を持ち主に返し、牛が横たわった畳を取り換えられた。敢て凶事にしなかったという。
 「怪しいものを見ても怪しむことがなければ、怪しいものではなくなる」と言われた。

松岡正剛 千夜千冊より
 紹介 『浅草弾左衛門』 塩見鮮一郎著
家康が認めた浅草弾左衛門。 日本の被差別社会の鍵を握った弾左衛門。その弾左衛門は13代が続いて、明治で廃絶した。
いったい弾左衛門とは何なのか。 (ちょうり)の歴史。の生活。 皮革の取扱い。犯罪者や失業者との関係。車善七との確執。
13代目弾直樹の冒険。明治政府による決断。
そこには、大都市江戸がつくりだした権益社会の実像と、日本の被差別社会の実像とが、鮮やかに重なっている。
弾左衛門については、徳川・明治・昭和を通して、誤報と曲解と恣意的な解釈がとびかってきた。その全貌を初めて起承転結をつけてあきらかにしたのが塩見であった。おかげで、われわれは浅草弾左衛門の歴史というものをほぼ教えられることになったのだが、しかし実際には弾左衛門は長らく差別問題の闇に葬られてきた人物なのである。
たとえば近代日本のしょっぱなのことでいえば、最後の弾左衛門が死んだ直後の明治25年(1892)、「朝野新聞」に次のような記事が出た。「関東での無慮一万戸。これを統轄したるものを弾左衛門といふ。弾左衛門は関東の中央政府ともいふべきものにて、今当時の実際に就て聞くところ一つとして奇警ならざるはなし」。
いまでは差別用語として禁じられているを多数統轄していたのが弾左衛門だという説明だが、これだけではまだ何者かはさっぱりわからない。わからないだけではなくて、強い規定をしすぎている。「関東の中央政府ともいふべきもの」とはどういう意味なのか、わからない。まして、そのリーダー弾左衛門がいつ、どのように“制度”になったかは、もっとわからない。塩見があきらかにした背景を、ごく大づかみにはなるけれど、ぼくなりに覗いておく。
弾左衛門の名が公式に歴史に登場するのは、家康の江戸入城前後のことだった。天正8年(1590)である。このとき大手門の先に矢野弾左衛門という者が住んでいて、弾左衛門という職掌と人名をもっていたと、大道寺友山が『落穂集』に書きのこしている。
 しかし実際には、太田道灌が江戸氏の館を改築して江戸城にしたときすでに、矢野弾左衛門はいたらしい。太田道灌が浅草寺に通じる細い一本道の首根っこに「」()を置いて街道警備をさせたのが始まりで、その周辺には処刑場と牢屋があった。

醸楽庵だり   1379号   白井一道

2020-04-13 10:51:20 | 随筆・小説



 徒然草第 205段 比叡山に



原文
 比叡山(ひえのやま)に、大師勧請(だいしくわんじやう)の起請(きしやう)といふ事は、慈恵僧正(じゑそうじやう)書き始め給ひけるなり。起請文(きしやうもん)といふ事、法曹(はうさう)にはその沙汰なし。古の聖代、すべて、起請文につきて行はるゝ政(まつりごと)はなきを、近代、この事流布したるなり。
 また、法令(はうりやう)には、水火(すゐくわ)に穢れを立てず。入物〈いれもの〉には穢れあるべし。

現代語訳 
 比叡山延暦寺に伝教大師最澄の霊威を請い迎え、神仏に誓約を起し、その照鑑〈しょうかん〉を請い、もし、その誓約を破るならば罰を受ける覚悟をしたという事は、慈恵僧正(じゑそうじやう)が書きはじめられたことである。起請文(きしやうもん)という事は、律令格式を講究した家筋では取り扱わない。昔の聖天子が治められたご治世では、すべて起請文(きしやうもん)に基づいて行われた治世はなく、最近になって流布したことである。
 また公の規定になっている法律や政令では、水と火には穢れはなく、容器に穢れがあるといわれているはずだ。

仏教思想と穢れとの関係   杉田暉道

インドの「マヌ法典」に記されている穢れの思想をみると,出産,性交,排泄,月経,死などの生命の再生産のために,欠くことの出来ない 重要な生の営みを,穢れのみなもとと考えた. そして身体の部位については,へそから下の部位が,へそから上の部位にくらべてより穢れていると考えた. わが国においては,穢れの思想が古くから存在 したことは「古事記」などから明らかである。さらに殺生禁断の詔勅が天武4年(676年)に出された。平安朝の後半期になると,戦争や疫病がはげしくなり,人心の不安が一層広まったので, 仏教は現世は穢土であると説き、往生して浄土へ行くためには,念仏を行わねばならないと強調した。 さらに「地獄草紙」という絵巻物が出版されたために,地獄の様子が更に理解され易くなり,死後の恐怖感を中心にした仏教思想が一挙に民衆の間に広まった。また朝廷は「天下触穢」の布告を出し,穢れを消去する為に,占い師を使って種々のタブーを出した。かくして,凡そ穢れたことに遭遇したときは,人の死亡では30日間,出産は7日間,家畜死は5日間,家畜のお産は3日間とした。 つぎにわれわれの日常生活における穢れの実態について検討した。これについては,衛生習慣と関係あるものを,1、空間との関係,2、身体との関係に分けて検討した。1の空間との関係については,日本人は外から帰宅すると,玄関で靴または下駄をぬいで部屋に入る。さらに,神社,寺などでは「土足厳禁」の札をよく見かける。また葬式に参列した時には, 塩を身体にかけて清める。2の身体との関係については,食事の前には手を洗い,箸を用いて食事をする。2の身体との関係についてみると,日本人は食事の前には,手を洗い,食事をする時には箸を用いる。また,バス,タクシーの運転手などは,白い手袋をはめている。代議士は選挙の際に白い手袋をして演説をする。白い手袋は清潔を示しているのである。また身体についてみると,下半身は汚いとされ,したがってこの下着の洗濯は他のものとは別にしてより丁寧に洗濯する。 さらに家の中では,トイレは不浄であると考えられているので,トイレ専用のスリッパがあり, タオルもトイレ専用のものが用いられる。このような行動は,最近は外国人の影響を受けて大分変わってきている。 (ホテルなどにおいては西洋の家のようにバスルームの中にトイレが設置されている) 以上述べたように,現代の衛生習慣と穢れの思想との関係について,例をあげて述べたが,これらを要約すると,内・外=上・下=清潔・不潔= 浄・不浄の思想が存在することがわかる。 最後に「マヌ法典」の穢れと古代日本の清浄・ 不浄の思想とを比較すると,明白な類似を見出すことができる.すなわち,「マヌ法典」では,脂肪, 血液,頭垢,大小便,鼻汁,耳垢,痰,涙,眼脂、 汗を穢れとしたが,「古事記」においては,汚染 されている物体および液体を見たり,触れたりすることが不浄であると考えたのである。
  
 穢れの思想が社会を規律した時代が日本の前近代であった。  白井一道

醸楽庵だより   1378号   白井一道

2020-04-12 10:18:21 | 随筆・小説



  徒然草第204段 犯人を笞にて打つ時は



原文
 犯人(ぼんにん)を笞(しもと)にて打つ時は、拷器(がうき)に寄せて結(ゆ)ひ附(つ)くるなり。拷器の様も、寄する作法も、今は、わきまへ知れる人なしとぞ。

現代語訳 
 犯人を鞭打ちの刑に処するときには、拷問をする道具に縛り付けたものだ。しかし、今ではこの器具の構造も、縛り方も誰も知らないという。
 
 ヨーロッパ中世社会の刑吏について 白井一道
 刑吏の悲惨な運命はすでに産声をあげたときにはじまっていた。刑吏の妻が産気づいても近所の女は誰一人として手伝いに駆けつけなかった。市民であればツンフト(同職組合)の仲間の家族や近隣の女が大勢手伝いに来たのだが、刑吏の家族に手を貸せば《名誉ある》市民もにおち、同職組合から除名されたからである。長ずるに及んでも刑吏の子には刑吏以外の職業はえらぶこともできなかった。どこの都市の同職組合もの子弟を徒弟として受け入れることを禁じていたからである。
刑吏の子弟の多くは中・近世のドイツ農村のハーゲシュトルツのように終生結婚もできなかった。刑吏の娘もまた刑吏以外の者と結婚することは許されなかった。
もし刑吏が一般の人々が行くロカール(居酒屋)で飲もうと思ったら、彼は戸口のところに立って帽子を少しもちあげ、自分の職業を示し、客のだれかが彼の来たことに抗議するかどうか忍耐強く待たねばならなかった。もしだれかが抗議すれば彼は無言で立ち去った。客がだれも抗議しなければ彼は隅の特性の三本足の椅子に座り、把手のないhenkellos(Henker刑吏とかけた言葉)ジョッキで飲まねばならなかった。これは大変不名誉なことであったから、事実上彼らは居酒屋から締め出されていたことになる。ハンブルクの刑吏は市参議会堂の地下にある食堂では自由に飲むことができた。そこは刑吏の酒場と呼ばれたのである。
ヨーロッパの苗字の多くが職業名であるところから単なる記号として割り切ることのできない苗字も多く残っている。マックス・ヴェーバーの苗字が織匠という意味であるといっても、エーリッヒ・シュミットのそれが鍛冶屋という意味であるといっても、その職業の歴史はその苗字の遠い歴史の彼方に消えてゆき、織匠としてのヴェーバー、鍛冶屋としてのシュミットを考える人はいない。
しかし「死刑執行人」「刑吏」という苗字をもって生まれたとしたらどうだろうか。これも過去においては社会的に重要な職業の名であるから恥じる必要は全くない。たとえ刑吏が過去においてであって、刑吏に触れた者もの地位におちてしまうほど、蔑視され怖れられた存在であったとしても、19世紀にはとしての地位は消滅し、刑吏も市民権を獲得している。
だが分別もさだかではない子どもの頃にはどうだっただろうか。幼少の頃にこの苗字のために遊び友達からからかわれ、はやしたてられ、口惜しい思いをしなかっただろうか。幼いときには全く自分のあずかりしらぬ何かのために苦しまなければならないことがしばしばある。それは私たちの一日をよぎってゆく歴史の影なのである。
エルゼ・アングストマンElse Angstmannが自分の苗字の研究から出発して刑吏という名前の歴史的・地理的分布を調べ、民衆が刑吏をどのような目で眺めてきたのかを明らかにしようとしたとき、幼少期の理不尽で口惜しい体験が奥深いところで彼女の研究を支えていたのではないかと、私はつい想像してしまう。
かつて賤視されたひとびとが存在した、という歴史がある。そして、いまやそうしたひとびとはいなくなってしまったのだが、その痕跡はなおも残っている。蔑まれたひとびとの存在を歴史的に抹消しないこと、そのひとたちをもう一度殺してしまわないことだ。
話を戻すと、中世後期や近世において刑吏はであった。とはいえ素朴な問いは次である。実に「刑吏は裁判で判決を受けた犯人に刑を執行する者であり、その裁判が正常に運営されている限り、非難されるべき理由はない」のであるが、それにもかかわらずなぜ処刑執行人はかくも賤視されたのであろうか。答えの一部は、読者の誰しもが察しうるように、刑罰に伴う〈血〉と〈死〉に関連するからである。
阿部勤也著『刑吏の社会史』より

醸楽庵だより   1377号   白井一道   

2020-04-11 10:45:38 | 随筆・小説



   
 徒然草第203段勅勘(ちよくかん)の所に



原文
 勅勘(ちよくかん)の所に靫(ゆき)懸(か)くる作法、今は絶えて、知れる人なし。主上(しゆしやう)の御悩(ごなう)、大方、世中の騒がしき時は、五条(ごでう)の天神に靫を懸けらる。鞍馬に靫の明神といふも、靫懸けられたりける神なり。看督長(かどのおさ)の負ひたる靫をその家に懸けられぬれば、人出で入らず。この事絶えて後、今の世には、封を著くることになりにけり。

現代語訳 
 天皇のご不興をたまわり勅命によって譴責された家には矢を盛って背に負う器、靫(ゆき)を懸ける作法が今は無くなり、知る人もいない。天皇のご病気、また流行病が蔓延し、世の中が騒がしい時は五条の天神に靫(ゆき)を懸ける。鞍馬の靫(ゆき)の明神というものも靫(ゆき)を懸けられた神様である。検非違使庁の下官、看督長(かどのおさ)が負っている靫(ゆき)をその家に掛けられるなら人の出入りができなくなる。この事例が無くなってから後、今の世になってからは門に封印を付けるようになった。
 
 刑罰について  白井一道
 中世の荘園では、犯罪をおかした者の家屋を、公家や寺社などの荘園領主が焼き払うという措置をしばしば行っていた。
この措置のウラにある当時の人々の意識を解き明かしたのが、勝俣氏による「家を焼く」の考察である。当時の人々は「犯罪」を「穢れ」と考えていた。そのために荘園領主の行う「刑罰」は犯罪者に制裁を加えるというよりも、それによって生じた「穢れ」を除去する「祓い」「清め」としての意味をもったという。そのための措置が、一見無意味にすら思える犯罪者家屋の焼却処分だったのである。
漆黒の闇が支配した中世の夜は、昼間の世界とはまったく異なるルールが存在していたという。
夜中に稲を刈ったり、作物をもって村内を通行した者は厳罰に処す。その一方で、武士たちの「夜討ち」は卑怯な不意打ちどころか、一種の武芸として許容されていた。この時代、夜には「夜の法」があり、「昼の法」はまだ限定的にしか社会に影響をおよぼしてはいなかった。
つまり、中世の人びとは私たち現代人とはまったく異なる犯罪観をもっており、それにともない刑罰も私たちの想像を超える実態をもっていたのだ。
同じく笠松氏による「盗み」の考察によると、当時の一般庶民は盗みを極端に忌避しており、そのために村落内では盗犯はどんなに少額であったとしても死罪(ともすれば一家皆殺し)であったという。
ところが、一方で為政者(公家・武家)の側は、これをさほどのこととは考えておらず、一様に盗みに対しては寛大な姿勢を示し、むしろ村落側のリンチの暴走に歯止めをかけようとすらしている。
権力はつねに豺狼(さいろう)のように暴虐で、庶民はつねに子羊のように柔弱だったなどと侮ってはいけない。そこには、ときに鎌倉幕府すらも戸惑わせた過酷な民衆社会の一側面が垣間見える。
犯罪によって生じた「穢れ」を「祓う」ことに執着した公家や寺社などの荘園領主たちとは対照的に、武士たち在地領主は犯罪者の身柄を積極的に自身の組織に組み込むことで権益の拡大を果たしたのである。
寺社や公家と、武士と、庶民で、まったく異なる刑罰観が併存している驚くべき実態がある。これも政治権力が分散し、秩序が多元的に存在した中世社会ならではの現象といえるだろう。

 中世ヨーロッパ社会にあって刑罰とは次のようなものであった。
 中世盛期以前のヨーロッパにおいては〈制裁〉などの意味をもつ近代的「刑罰」は存在せず、むしろ違法行為の後に科せられる「刑罰」は第一に〈秩序回復〉の意味をもっていた。
「ひとつの犯罪が起こったとき、問題となるのはその犯罪によって生じた傷を治すことであった。必ずしも、あるいは第一に被害者の傷に対して損害の賠償がなされるのではなく、彼が生きている世界の秩序への攻撃に対して防衛しなければならなかったのである。だからこそ犯人がどのような動機で行動したのかはどうでもよいことであった。同様に犯人の行為を倫理的な基準で評価することも意味のないことであったにちがいない」。
阿部勤也著『刑罰の誕生』より

醸楽庵だより   1376号   白井一道

2020-04-09 12:19:41 | 随筆・小説


 徒然草第202段 十月を神無月と言ひて


原文
  十月を神無月と言ひて、神事(じんじ)に憚(はばか)るべきよしは、記したる物なし。本文(もとふみ)も見えず。但し、当月、諸社の祭なき故に、この名あるか。
 この月、万の神達(かみたち)、太神宮に集り給ふなど言ふ説あれども、その本説なし。さる事ならば、伊勢には殊に祭月とすべきに、その例もなし。十月、諸社の行幸(ぎやうがう)、その例も多し。但し、多くは不吉の例なり。

現代語訳 
 十月を神無月と言って、神事を謹んで遠慮するべき理由を記したものは無い。古典籍に根拠となるべき文章もない。但し、当月には諸社の祭事がないのでこの名があるのかもしれない。
 この月、万の神たちは伊勢の皇大神宮に集まられるという説があるけれども、その確かな根拠があるわけではない。そのような事であるならば、伊勢の皇大神宮にあっては殊に祭月とすべきであるのに、そのような例もない。十月、諸社に行幸される例も多い。但し、多くは不吉の例である。

 神無月の由来  白井一道
 俗説 出雲大社の説明
 十月は全国の八百万の神様が、一部の留守神様を残して出雲大社(島根県出雲市)へ会議に出かけてしまうと考えられてきました。
その為、神様が出かけてしまう国では神様がいないので「神無月」、反対に出雲の国(島根県)では神様がたくさんいらっしゃるので「神在月」というわけです。
また、「神無月」の無を"の"と解して「神の月」とする説もありますが、「神無月」も「神在月」も、神々が集う大切な月という意味です。
会議では何を話し合っているの?
年に一度、出雲大社に集まった神様たちは、人の運命や縁(誰と誰を結婚させようか)などを話し合います。遠く離れた者同士が知り合い、結婚するようなことがありますが、この会議の結果なのかもしれませんね。その為、出雲大社は縁結びの総本山でもあります。
また、来年の天候、農作物や酒の出来なども話し合われているそうです。
会議の場所が出雲大社なのは?
出雲大社の祭神は大国主神(おおくにぬしのかみ)。天を象徴する天照大神(あまてらすおおみかみ)に対し、大地を象徴する神様です。
大国主神にはたくさんの子どもたちがおり、その子どもたちを全国各地において国を管理させました。そして、子どもたちが年に一度出雲大社に戻り、その年の報告や来年の相談をしたのです。やがて、他の神様も一緒に出雲に集まるようになったといわれています。
・十月一日:「神送り」出雲に出発
       各家庭で、旅立つ神様にお弁当としてお餅やお赤飯を供えます。
・十月十日:「神迎え」出雲に到着
       出雲の国・稲佐の浜で神様を迎え、出雲大社へ向かいます。
・十月十一日~十七日:「神在祭」(かみありさい)
       神議(かむはかり)という会議をします。出雲大社では、会議処である上宮で祭りを執り行います。また、神々の宿泊所となる境内の十九社でも連日祭りが行われます。
・十月十七日:「神等去出祭」(からさでさい)
      出雲大社から出発、出雲の国へ。
・十月二十六日:「第二神等去出祭」
      出雲の国から出発。再び出雲大社でお祭りをします。
・十月末日:「神迎え」帰宅 
       各家庭でお餅や作物を入れたすいとんなどを供えます。
「神無月」の語源は不詳である。有力な説として、神無月の「無・な」が「の」にあたる連体助詞「な」で「神の月」というものがあり、日本国語大辞典もこの説を採っている(後述)。「水無月」が「水の月」であることと同じである。(伊勢神宮・内宮に居る天照大御神以外の)神々が出雲に集まって翌年について会議するので出雲
以外には神がいなくなるという説は、中世以降の後付けで、出雲大社の御師が全国に広めた語源俗解である。