宮応かつゆきの日本改革ブログ

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「ポーランドを勢力圏に」スターリンの世界大戦の”最大、中心的な目標”=スターリン秘史第19章

2014年07月22日 | 綱領関連

 「前衛」誌8月号「スターリン秘史 巨悪の成立と展開」は第19章「反ヒトラー連合とポーランド問題(下)」を掲載しています。

 第19章で、不破さんは、スターリンにとって、第2次世界大戦のなかで「ポーランド問題」はどのような位置付けであったのか、整理されて読者に伝えてくれているように思います。 以下、その点を紹介させていただきます。

 「(6)ポーランド問題。四年間の総決算 三つの目標は完全に達成された」(「同誌226頁)

 「ポーランドをソ連の領土および勢力圏におさめることは、スターリンの覇権主義が世界大戦の最初から最後まで追及した最大の、そして中心的な目標でした。 スターリンは、1939年、ポーランドの分割・併合を決めたヒトラー・ドイツとの秘密協定で、この目標の実現にとりかかりました。 その土台が、41年6月、ドイツの対ソ攻撃で崩れ去った時、同じ目標を、今度は米英ソの反ヒトラー連合の枠組みのなかで実現しようとし、ポーランド解体政策からポーランンド復活政策に基本路線を急転換させるとともに、覇権的野望をさらに膨らませて、三つの目標を見定めたことは、第18章で究明したところでした」

 「それから4年間、45年5月、対独戦が勝利のうちに終結したときには、スターリンはすでに戦争開始の時点でたてたこれらの目標の全面達成の寸前に到達していました。 そして、英米両国との残された相違点の解決を経て、7月、ポーランドの新政府が英米両国の承認を得ました。 この時点で、スターリンは英米両国の合意のもとに、三つの目標の完全な達成に成功したのです」

 「第1に、『カーゾン線』こそソ連=ポーランド間の歴史的境界線だという主張を、テヘラン会談、ヤルタ会談で、米英ソ三国による決定事項とし、主としてイギリスの責任でポーランドの側にも東部ポーランドのソ連への併合を認めさせました」

 「第二に、同じくテヘラン会談とヤルタ会談では、東部ポーランドの代償ということで、オーデル川の線までのドイツ領をポーランドに割譲することが決定されました」

 「第三に、こうして西方に大きく移動した新生ポーランドを、ソ連の勢力圏に組み込むために、ソ連軍の占領支配のもとで、ソ連の指揮下につくった臨時政府を、ヤルタ会談とそれ以後の外交活動を通じて、ポーランドの正統政府として認めさせました」

 「これが、1941年6月~7月のポーランド復活政策への転換以後、4年間の軍事=外交活動の到達点でした。 ソ連は、ドイツとの同盟時代に得たよりも、はるかに大きい領域を領土および勢力圏として、自分の支配下におくことができたのです。 ソ連の勢力圏は、西方に300キロ近くも前進し、ドイツの中心部にまでせまるようになりました」

 不破さんは、さらに次のように指摘しています。

 「覇権主義的野望のいっそうの拡大」

 「1944年~45年の東部戦線でのソ連軍の急進撃は、ポーランドだけでなく、東ヨーロッパの広範な国々をソ連の勢力圏に組み込むための新しい条件を、スターリンの前に開きました」(「同誌」227頁)

 「ポーランドの支配の成功は、東ヨーロッパ全体の政治的征服というスターリンのより拡大した野望にとって、決定的な突破口としての意義をもったのでした」(「同誌」228頁)

  スターリンの領土拡張の野望はやがて、日本にも及んできます。

 それにしても、こうした「領土拡張の野望」が”カティンの森”に代表されるようにな、大虐殺をともなって進められ、また、「社会主義・共産主義」の名目で強行されたことに”戦慄”を覚えるのは読者の実感ではないでしょうか。

 それだけに、「スターリンの巨悪」を歴史的事実に基づき徹底して暴き、”科学的社会主義の本来の姿を復活”させることが、どんなに重要な人類史的課題であるかを痛切に感じさせられます。