英語と書評 de 海馬之玄関

KABU家のブログです
*コメントレスは当分ブログ友以外
原則免除にさせてください。

民主党監視塔☆教育の核心は強制であり国家の本質は演出である

2009年08月31日 22時10分07秒 | 教育の話題


民主党政権の成立を受け日教組の魔界転生が確実な今、これら戦後民主主義を信奉する勢力の教育観を批判の俎上に載せたいと思います。同志社大学の創立者・新島襄先生が喝破された如く「教育は国家の一大事業」であり、日本のため日本の子供達のためにも、民主党政権の教育における左翼反動策動は断然封じなければならないからです。

而して、教育を巡る政策論争の重要性は一層高まるだろう。このような問題意識から、2006年12月に教育基本法が改正される以前の教育を巡るこの社会の風景、戦後民主主義の教育観と所謂「条理教育法学」が教育現場を風靡していた時代の彼等左翼勢力のロジックを当時のテクストに基づき反芻してみる。本稿はそのような試みの嚆矢です。


◆教育と自由
東京都が2003年に出した国旗・国歌の取り扱いに関する通達(2003年10月23日付「入学式、卒業式等における国旗掲揚及び国歌斉唱の実施について(通達)」)を一つの契機として、国旗・国歌を巡る議論・訴訟は現在も絶えることなく続いています。

而して、(甲)日の丸・君が代がかって日本帝国主義の対外侵略の象徴であったこと、民主主義・国民主権と矛盾する天皇制の賛美に通じる等々の、論理的・社会思想的・憲法論的には荒唐無稽な理由で国旗掲揚・国歌斉唱に反対するというカルト的主張が世論の支持を受けるはずもなく、国旗・国歌を巡る朝日新聞を始とする反対派の主張は、(乙)国旗掲揚・国歌斉唱には反対ではないが、国旗掲揚・国歌斉唱を強制することには反対という主張に収斂している気配です。蓋し、民主党政権下における日教組等の左翼反動勢力はこの(乙)型のロジックを押し立てて反転攻勢をかけてくる。そう私は予想しています。

けれども、「国旗・国歌には反対ではないが、国旗・国歌の強制には反対」と主張する論者は、国家と教育についてある共通な陥穽に陥っている。すなわち、「国家は自生的な共同体であり、子供達は子供達がやりたいことを自由にのびのびやらせておけば自ずと本来の能力が開花するものだ」という幻想に彼等は絡め取られているのではないか。私はそう考えています。而して、この点を明らかにするために、二つの反対派の主張を見ておきましょう。最初は、『週刊金曜日』(2004年5月21日号)に寄せられた音楽家の港大尋さんの投稿「音楽の自発性とは何か 「君が代」について」です。以下引用開始。

「君が代」が国歌として法制化されてから【KABU註:「国旗及び国歌に関する法律」の施行は1999年8月13日】、四年以上が経つ。学校現場では「君が代」の斉唱義務化が、充分な議論が尽されぬまま強制されている。(中略)そもそも音楽とは、いったい何のためにあるのか。(中略)本来、音楽とは自発的であるからこそ、音楽となり得るのではないか。(中略)

うたうことが強制されれば、きわめて説得力を欠いた中身の空っぽなうたになってしまうだろう。「君が代」の斉唱が如何に義務化されようとも、自発性なしには根づくこともない。(中略)また「君が代」は、ヨーロッパとの外交を進めていく上で式典用の音楽がないと不都合が生じてくる、という理由から、明治初期に作曲されたものであった。「君が代」のこの決して自発的とはいえない作曲の経由は、(中略)振り返って顧みるべき音楽史であろう。

教育現場において、自発性とは特に重要なタームである。子どもたちから自発性が失われれば、将来的に生き生きとした豊かな社会を作っていくことはできまい。教職員も同様である。(中略)音楽がない社会は存在しない。誰もがうたいたいうたをうたう。それは音楽の民主主義とも呼べよう。一人ひとりの自発性を尊重せず、音楽が道具として扱われるような社会であっては、民主主義のごく基本的な理念に反するだろう。無理強いを推し進める教育行政の在り方には、どこか根本的な欠陥があるように思えてならないのである。(引用終了)


私は「音楽の民主主義」という言葉が全く理解できないのですけれども、港大尋さんは、音楽の本性としての自由ということと、教育のツールとして音楽が使用される場合に音楽が保持すべき性質とを混同していると思います。而して、これは「音楽とは何か」、すなわち、音楽の本性をどう考えるかを巡る立場の違いとは関係ない事柄であり、港投稿はこの点で論理的に破綻している。

畢竟、港投稿の誤謬は、旧ソ連時代のロシア・東欧を席捲した「社会主義リアリズムの芸術論」(芸術はその内容においてもその機能においても社会主義的な国家建設と整合的でなければ、芸術作品としての芸術性も低いとする考え)と、その社会主義リアリズムに反発して「共産主義社会では靴屋も共産主義的な靴を作るのか」という言葉を残し共産党と袂を分かったパブロ・ピカソの故事に端的に現われている事態と通底しているのかもしれません。蓋し、共産主義社会なるものにおいても「人間=ホモサピエンス」の人体構造がそう変わらない限り「靴屋も資本主義社会と同じような靴を作る」のでしょうが、共産主義社会なるものでは「靴屋は資本主義社会と同じような靴を共産主義的に作る」のでしょう。ならば、音楽も靴もその作品自体には自由の契機が不可欠としても、その作品を社会的に利用することとその自由の契機は別の位相にあることは確実なのです。


◆国家の本性と教育の核心
教育の本性は如何。このことを検討するためにもう一つの投稿を読んでいただきたい。それは、ご自分の中学校の卒業式の様子をレポートした東京都に住む当時16歳の高校生のもの。2004年5月17日の朝日新聞『声』欄に掲載された投書「知恵を絞った卒業式が成功」です。以下、引用開始。

(前略)昨年までは、舞台正面に国旗と市旗ではさんで卒業制作のパネルを飾っていたのですが、今年は都教委からの通達によって「国旗は舞台壇上正面に掲揚」と義務付けられました。もしかしたら今年は飾ることができなかったかもしれません。しかし、校長先生や担任の先生たちが私たち卒業生の気持ちをくんで知恵を出してくれました。(中略)

卒業式では舞台正面に国旗を掲揚しましたが、その下に、新世界に飛び立つ卒業生をイメージして紙花で描いた絵パネルも掲示できました。都教委の通達にも合致し、卒業式は素晴らしいものとなりました。国旗・国歌は国民が自然と慣れ親しんでこそ受け入れられると思います。強制では抵抗を感じさせるばかりですし、これからの世代に愛着を持ってもらうのは難しくなるでしょう。(以上、引用終了)


前述の如く、これら二個の投稿はある認識を共有していると思います。それは、国家は自生的な共同体であるという認識。そして、子供達は自由にのびのびやらせておけば愛国心なぞ勝手に育つという認識です。

けれども、このような認識は、例えば、フランス革命やドイツ帝国成立の経緯、あるいは、アメリカ合衆国の成立過程、そしてなにより我が明治維新の際の廃藩置県による「近代国民国家=日本」の成立の経緯を見れば明らかに間違った認識でしょう。畢竟、アーネスト・ゲルナー『民族と民族主義』やベネディクト・アンダーソン『想像の共同体』を紐解くまでもなく、国家や民族はほっておいても自ずと成立するもの、すなわち、「自生的な共同的観念形象」などではないのであって、国家や民族のアイデンティティが確立するためにはそれを推進する側の<演出>が不可欠なのです。そして、そのような<演出>は、<民族という幻想>あるいは<国家という神話>の戦略的流布であり、蓋し、教育とはそのような<演出装置=大道具>の一つに他ならない。と、そう私は考えています。

民族も国家も自然なものではなく、自生的に発生形成するものではない。それが形成されるには狡知練達なる為政者の<演出>が不可欠。然るに、国旗・国歌の強制に反対する論者は国家の自生性を素朴に信じているらしい。蓋し、その素朴な思い込みの構図は、国家神道に悪乗りした戦前のウルトラ右翼や現下の憲法無効論なる妄想を唱える論者達とパラレルではないかと思います。

ただ、後者は国家のあるべきイメージとして、天壌無窮なる国体なるものを想定するのに対して、前者は「世界市民なるものが形成する自由で平等で友愛に満ちた共同体」を想定している点で異なる。而して、民主党・日教組・朝日新聞に代表される戦後民主主義的な教育観を信奉する論者は、「自由・平等・友愛に満ちたそのような世界市民なるものが形成する共同体が将来成立するはず→その成立までの移行期間、日本は世界市民的な世界観と親和的な戦後民主主義が統べる国であるべきだ」、とそう考えているのかもしれません。

国旗・国歌の強制に反対する論者は自生的な国家成立観を共有している。しかし、国旗・国歌の強制に反対する主張が基盤としている「社会思想=世界市民の形成する友愛に満ちた共同体なるもの」は、近代主権国家的な国家観、および、立憲主義の憲法観とは明らかに矛盾する。なぜならば、一主権国家の枠内に納まる、否、枠づける近代主権国家の国家観が近代主権国家を止揚して初めて可能になる世界市民の形成する友愛に満ちた共同体なるものと矛盾することは自明でしょう。そして、(謂わば理神論的にパターン化される場合)立憲主義とは徹頭徹尾、国家を人為的な装置と考える社会思想であり、このような立憲主義的で人為的な国家と自生的な国家のイメージは決して融和することはないからです。

いずれにせよ、民主主義と強制を相容れないものと捉える港さんの主張は完全に間違っている。港さん曰く、「一人ひとりの自発性を尊重せず、音楽が道具として扱われるような社会であっては、民主主義のごく基本的な理念に反するだろう」、と。

いくら音楽家であるとしても政治を論じる公共圏に参加されるのならば民主主義の定義と歴史くらい調べられたらいかがか。と、このワンセンテンス、58字の文字列を最初読んだとき私はそう思いました。而して、民主主義の定義なり機能についての言説は確かに汗牛充棟、かつ、眩暈がする程多様ではあるのですが、民主主義が強制にかかわる政治原理(正当化される強制と正当化されない強制を峻別するシステム)であることは、カール・シュミットもハンス・ケルゼンも、ハートもドウォーキンも、ロールズもダールも前提にしている認識ではなかったか。ならば、民主主義は強制と矛盾しないどころか、民主主義は強制をその本質的な契機として内包していると考えるべきなのです。

蓋し、国家の本質は演出であり、教育の核心は強制である。而して、教育、就中、義務教育とは、この日本社会で生きていくための基礎的な知識とスキルを、全体の中の自分の立ち位置の認識と社会で世過ぎ身過ぎするための覚悟を子供達に強制的に与えるシステムなのです。要は、日本の国際競争力を維持向上し、社会の安寧秩序を維持するために(あるいは、社会の安寧秩序を維持するコストを低減するために)、そして、子供達が将来独立自存していけるようにするために義務教育や初等中等教育は存在している。ならば、民主党・日教組の国家観・教育観はその基盤において破綻していることは明らかであろうと思います。

畢竟、教育における左翼の反動を断乎阻止。
頑張りましょう。





☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★
かなり真面目にブログランキングに挑戦中です。
よろしければ下記(↓)のボタンのクリックをお願いします。 

ブログランキング・にほんブログ村へ 海外ニュース部門エントリー中です♪

☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★



最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。