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「従軍慰安婦」問題-完封マニュアル(上)

2010年10月29日 17時15分10秒 | 日々感じたこととか


日韓併合条約締結から100年の今年、2010年。尖閣諸島を巡る支那政府の傲岸不遜かつ非常識な対応と、その一斑でもあろう尖閣諸島問題の<問題化>に端を発した支那国内の反日デモを鑑みるに、少なくとも国際政治的には、「自虐史観-東京裁判史観」なるものは特定アジア諸国の対日マヌーバー(maneuver)でしかないことが図らずも一層明らかになったと思います。

日本にとっては「災厄の種=貧乏籤」でしかないが、1910年当時における東アジアの安定のためには慶事ではあったろう日韓併合からちょうど一世紀。この両義性を熟知しながらも、「それが、東アジアで当時唯一の近代的の国民国家である日本の<人類史的使命>でもあろうか」と、従容と死地に赴かれた伊藤博文公の胸にはこのアンビバレントな感想が去来していたの、鴨。この百年に思いを馳せるとき私はそう反芻しています。

他方、日韓併合から一世紀が経過したという<現実>は、現下の特定アジア諸国の反日動向の意味を「歴史的―論理的」に考究すること、そして、それらに対する適切な対応がいかなるものであるかを「現実的-実践的」に究明するための槓桿足りうるもの、鴨。本稿はこのような、日本が置かれている地政学的な現在に関する<歴史的位置づけ>を基盤として、より適切な特定アジア対応を抽出する試みです。

而して、所謂「南京大虐殺」、所謂「強制連行」、所謂「創氏改名」、あるいは、所謂「歴史教科書問題」、所謂「河野談話-村山談話」、更には、所謂「靖国神社問題」等々、特定アジアと戦後民主主義を信奉する国内勢力が紡ぎだす、正に、邪悪の百花繚乱、不埒の千紫万紅の言説言動の中で、これら<反日政治的神話>の中でも最も荒唐無稽な所謂「従軍慰安婦」なるものを本稿では取り上げます。蓋し、東京裁判(極東国際軍事裁判)を問題の結節軸とする国際法的な論点を孕むイシューに関しては稿を改めて俎上に載せたいと考えており、その点、所謂「創氏改名」の問題とパラレルに、この所謂「従軍慰安婦」なるものを巡る問題は(より純粋かつより原初的な形でそのロジックの破綻が露になっており)日韓併合から一世紀を経た<現実>を槓桿として特定アジアと日本との関係を「歴史的―論理的」と「現実的-実践的」に考究する作業の嚆矢として適切であろうと考えたからです。





所謂「従軍慰安婦」なるものの問題を俎上に載せる前に、その前哨として日韓併合の「歴史的-論理的」位置づけを確認しておきます。私は別稿の冒頭でおおよそこう書いています。

この社会では、2010年の現在、「日韓併合条約はその当初から無効だった」などという妄想を喧伝する論者も少なくないようです。而して、「日韓併合条約の無効性が認識できない者は、無知か狭量か、いずれにせよ、歴史を見る眼か、または、道徳心か、あるいは、その両方が曇っているのだ」、と。それくらい言い出しかねない勢いで、彼等は国際法的に全く成り立たない独善的な弄して恥じ入る気配もないように見える。

日韓併合条約の法的性質に関して、例えば、和田春樹や高橋哲哉、または、戸塚悦朗や中塚明等の論者の<研究>など国際法的にはなんの価値もないもの。すなわち、日韓併合条約無効論が成立しないのは証拠の不足ではなく法的論拠の不在が主な理由ということです。つまり、

彼等がいかに日韓併合条約締結の事情や背景を精緻に調べあげて、1910年当時、その自由意思が全く認められない程、韓国が日本に抑圧されていたという事実を言挙げしようとも、「どのような事態が存在すれば、ある併合条約が当初から無効だったと言えるのか」「そもそも条約が当初から無効であるということはどういうことなのか」という議論の根幹が不分明なままであれば、彼等の努力や主張は「笊で水を汲む」シューシュポスの神話的で無意味な行為でしかないのです。   

この点に関しては、実際、韓国側が招集したとされる国際会議でも、無効論の主張は欧米の国際法研究者からことごとく退けられており、また、現在の民主党政権でさえも「日韓併合条約は有効に成立した」と認めていることを鑑みれば、無効論の根拠の脆弱さと怪しさは自明であろうと思います。(以上、自家記事転記終了)


・戦後責任論の崩壊とナショナリズム批判の失速
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/65226757.html


例えば、現行の日本国憲法は他国による軍事占領下での法改正を原則禁止したハーグ陸戦条約に違反するから無効であるとか、「摂政ヲ置クノ間之ヲ変更スルコトヲ得ス」と規定した旧憲法75条の拡大解釈からはその「改正」は旧憲法違反であり無効である等々と十数個の理由を挙げて、日本国憲法の無効と大日本帝国憲法が現行憲法として有効であると語る人々が世の中には存在する。けれども、ある国際法に違反した事実が存在したとして、あるいは、拡大解釈をすれば旧憲法の改正手続条項違反と言えなくもない事実があったとして、それゆえに新憲法がなぜに無効になるのかの法理的な説明がそこには欠落している。よって、このような憲法無効論は全く成立しようのない議論なのですが、而して、この憲法無効論と同様、日韓併合条約無効論もまた土台法律的には成立し得ない議論なのです(尚、憲法無効論の無効性についてご興味がある向きは下記拙稿をご参照ください)。

・憲法無効論の破綻とその政治的な利用価値(上)~(下)
 ttp://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11396110559.html


要は、「憲法が無効とはどういうことなのか」、つまり、ある新憲法がその憲法としての効力(法の妥当性と法の実効性)の根拠を、旧憲法からの「継承-授権」に期待していない場合、旧憲法の改正条項違反の嫌疑なり旧憲法を基準とした憲法改正限界論からの疑義は新憲法の法的効力に毫も影響を与えることはないということ。

而して、1910年当時の、自力では近代的の主権国家としての存立が覚束ない国を(その国が他国の勢力圏に入ることが自国の安全と生存にとって冗談抜きに忌々しき事態である場合)、白黒はっきり言えば、韓国のようなその国を日本のようなその国が強制的に併合する措置は合法であったという法の理解の前には、例えば、戸塚氏や中塚氏の「日曜歴史探偵団」の如き、しかし、涙ぐましい努力で積み上げられた「韓国併合に至る縷々たる強制なるものの事実」の発掘などは、「ただ、秒速89メートルの台風の前の塵に同じ」なのです。    

以下、かくの如き「戦前の日韓関係のパラダイム」理解を与件として、所謂「従軍慰安婦」なるものを巡る問題の解決案を俎上に載せていきたいと思います。






◆「従軍慰安婦」問題攻略の理路

所謂「従軍慰安婦」なるものを巡る問題を日本はどう解決すればよいのか。否、このような問題が「解決」するということは、今実現していないどんなことが実現するということなのでしょうか。蓋し、この問題の解決に至る手順は、3個の事実・2個の概念・1個の方針にまとめられるのではなかろうか。そう私は考えています。

3個の事実
2個の概念
1個の方針


◆事実
(1)河野談話が発せられたという事実
所謂「従軍慰安婦」なるものが、歴史学的に見ていかに荒唐無稽であったとしても、ときの日本政府がその存在を認め公式に謝罪したという事実は取り消せないということ。だからこそ、当時の河野洋平官房長官と宮澤喜一首相の咎は万死に値する。

(ノ-_-)ノ ~┻━┻・..。    

(2)所謂「従軍慰安婦」なるものの存在を証明できない事実
米下院で「従軍慰安婦に関する日本非難決議」を推進したマイケル・ホンダ議員自身が、所謂「従軍慰安婦」なるものが存在した根拠としては、結局、河野談話しか挙げることしかできなかった。けれども、世界の法学研究者と法律実務家の感覚では、被告側(日本)が「事実を認めた以上」ホンダ議員が所謂「従軍慰安婦」なるものの存在を示す証拠の提出を要求される筋合いはない。

(ノ-_-)ノ ~┻━┻・..。   

(3)日本が法的責任を負うことはあり得ないという事実
もし、所謂「従軍慰安婦」なるものが存在していたとしても、一切の法的な戦争責任/戦後責任を(すべての責任を「ナチス」に押し付け、「主権国家=国民国家」としての責任を不十分な形でしか果たしていないドイツとは異なり)、国際法史上例を見ない精度と誠実さで果たし終えている日本にとって、彼女達に対する「責任」は「道義的-政治的」なものでしかあり得ない。而して、戦後生まれが人口の85%を優に超える現在、実は、その「道義的-政治的」な責任さえ、日本国はもちろん大部分の個々の日本人も法論理的に(要は、高橋哲哉氏等のある日本人のご本人の美意識やイデオロギーを捨象するならば)負おうとしても負いようがない性質のものである(尚、この点については下記拙稿を参照いただきたい)。

(ノ-_-)ノ ~┻━┻・..。    

・高橋哲哉『歴史/修正主義』
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/3ddaab9f79ee4ac630414d90fd957c75


・戦争責任論の妄想:高木健一『今なぜ戦後補償か』を批判の軸にして(上)~(下)
 https://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/df613c9e50e4d96c875145fbcc4eaf8a



◆概念
(1)「従軍慰安婦」
「従軍慰安婦」問題とは何なのか。それは、①日本軍が直接、②非日本人の女性を慰安婦として調達し、③日本軍が管理する施設で性行為を行わせ、かつ、④その行為の対価を(ほとんど)支払わなかったという現象なのか。

それとも、⑪巨大なマーケットである日本軍の兵士を目当てに(あるいは、日本軍からの誘致を受けて)民間の業者が、⑫日本の内外で公娼を募集して、⑬民間の施設で性行為を行わせ、かつ、⑭相対的と全般的には「適正」な対価報酬を支払った現象なのか。

( ..)φ( ..)φ( ..)φ    

蓋し、「従軍慰安婦」の概念はこれら少なくとも4個のチェックポイントから確定されなければならないのだと思います。すなわち、

・女性の国籍
・女性の募集調達への日本軍の直接の関与
・施設の管理への日本軍の直接の関与
・対価報酬の支払い元、および、対価報酬の有無と相当性   

もちろん、戦地での売買春を巡っては多様な形態が存在したのでしょう。けれど、「従軍慰安婦」問題が、「政治的-道義的」な責任が問われるべき問題とするならば、これら4個のチェックポイントはクルーシャルなはず。なぜならば、永井荷風・西園寺公望も「絶賛」したその道の<本場>のフランスやオランダは言うに及ばず、当時、「公娼制度」は日本だけでなく欧米諸国の多くで合法的存在だったのですから。

尚、巷に謬説が蔓延していますが、原則、現在の日本でも売買春行為自体は違法ではなく、あくまでも、管理売買春が違法なのです。そして、その管理売買春の犯罪化を具現した「売春防止法」が日本で施行されたのは1957年。而して、これはほとんどの欧米諸国よりもディケード単位で早い立法化だったのです。


(2)責任/強制性
所謂「従軍慰安婦」なるものを巡る日本の責任を問う主張の中には、「従軍慰安婦」の定義とは無関係に、「それが日本の植民地支配や日本の占領下で行われたものである限り、そして、顧客のほとんどが日本軍兵士であった以上、日本の植民地出身の女性に業務として性行為をさせた行為は、<従軍慰安婦システム>として批判されるべきであり、日本はその責任を免れない」とするものも散見している。意味不明である。  

( ..)φ( ..)φ( ..)φ 

意味不明ではありますが、蓋し、おそらくこのような主張の根底には、


(イ)帝国主義の植民地支配は悪であり、(ロ)韓国併合は帝国主義の植民地支配に他ならず、(ハ)他国の女性を性的に支配することは、その国自体に対するレイプに他ならない、土台、(ニ)売買春制度自体が人倫に反する悪であり、更に、(ホ)「性の商品化」は早晩廃止されるべき資本主義に特殊な現象だ。

要は、直接的の強制がなく、日本軍兵士は単に顧客として公娼施設を利用していただけにせよ、その施設を組織的かつ継続的に日本軍が利用したこと自体において道義的責任を日本は免れられない。 


( ..)φ( ..)φ( ..)φ   

というような認識が横たわっているの、鴨。

前三者の(イ)~(ハ)は法論理的に成立しない主張であり、哲学的にはそのような概念が存在し得ないことが英米流の分析哲学によって完全に証明されている(ここでは「帝国主義」や「日本国」や「悪」や「レイプ」等々の)「実体概念」、すなわち、普遍的にある唯一の「意味=指示対象」を持つとされる言葉の存在を仮定してなされた文学的妄想にすぎず論評の必要もないでしょう。問題は後二者。

而して、「女が道徳的でないのは、道徳が人間的ではないからだ」とは世にしばしば囁かれてきた箴言ではありますが、さりとて、少なくとも、管理売買春や児童売買春に関する限り売買春制度が人倫に反する可能性のあるものと意識され、多くの国で違法な事象として漸次カテゴライズされてきたことは事実でしょう。しかし、売買春行為自体が人倫に反するか否かは(売春が「世界最古の職業:Prostitution is known to be one of the oldest occupation. 」と呼ばれることからも)そう自明でもない。

蓋し、言語学研究者の常識ですが(消滅や変容からそれを守護する)「文化としての言語の最後の防波堤は女と子供」であり、畢竟、性道徳に関しても女性は「文化としての家族と性を巡る慣習の最後の防波堤」と考えられる。ならば、その女性が専ら従事する売買春が世界最古のビジネスとして存在してきたという事実は、それが道徳規範の体系と整合的であるか、少なくとも、強靭な対抗力を保持している(with robustness)ことは間違いないだろうからです。

換言すれば、資本主義社会における「性の商品化」なるものが悪習と見えるとするならば、それはそのような「左翼-リベラル」のものの見方が非人間的なせいかもしらず、資本主義は「左翼-リベラル」よりも遥かに狡猾に人間性と折り合いをつけてきたということなの、鴨。

いずれにせよ、このような所謂「従軍慰安婦」なるものを巡って日本の責任を認める議論は単なる論者の個人的な願望や妄想、あるいは、イデオロギーや実体概念の産物にすぎず、前述の如く法的責任論は論外、そして、日本の「政治的-道義的」な責任を問いうるものでもないと思います。





◆方針
上記の如き事実と概念を踏まえるとき、日本は、所謂「従軍慰安婦」なるものを巡る内外の反日動向に対してどのようにすればよいのでしょうか。蓋し、ここで前提とすべきは、

・国際政治の舞台は歴史的な事実や善悪を究明する場ではない
・日本を中心に地球が廻っているのでもなく、日本と特定アジアだけが世界でもない
   

ということでしょう。国際政治の舞台は国力や地勢も、歴史的や文化も非対称的な各国が自国の国益の極大化を目指して競争と協力を繰り返す場にすぎない、と。ならば、この問題において日本の取るべき道は、国際政治の一般的な戦略策定と同様、(イ)日本の国益を最大限にかつ可能な限り安定的に実現することを希求しつつ、他方、(ロ)対米関係と対特定アジア関係を軸とした、日本の地政学的で非対称的な条件に基礎づけられた、日本の国際関係ビジョンから演繹されるしかないでしょう。而して、(ハ)国際政治が基本的にゲーム理論的状況(あるプレーヤーの行動選択が、他のプレーヤーの行動選択に関する予測に規定される相互関係が成立している状況)でしかない、少なくとも、ゲーム理論的関係ではある以上、この戦略策定、すなわち、処方箋の作成においてはゲーム理論的な発想が不可欠ではないかと思います。

◎国際政治における戦略策定の処方箋
・国益の極大化(最大化と安定化)
・地政学的な「自己-他者」の非対称的な力関係に基礎づけられたビジョン
・ゲーム理論的アプローチ



<続く>



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