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「左翼」という言葉の理解に見る保守派の貧困と脆弱(4)

2010年10月26日 17時17分56秒 | 日々感じたこととか

 



◆「左翼」の陥穽

先に一瞥した如く、「左翼=教条主義」批判は現在でも有効としても、かっての左翼批判の定番定跡、「左翼=全体主義」批判は現在では通用しないのでしょうか。「真正」の二文字を掲げる保守派による左翼理解の貧困と脆弱を照射する前哨としてこの点を吟味します。

畢竟、2010年の現在、左翼は全体主義に向けた死に至る病から治癒したのか。私は、しかし、(例えば、ハイエクやハンナ・アーレントが指摘した)この批判軸は、左翼が中央集権型の計画経済や生産手段の国有化を放棄した現在でも、マルクス主義の世界観をもう一段掘り下げるとき、今尚、有効な左翼批判の水脈に到達すると考えます。

このブログでも前に記したことですが、「左翼→全体主義」の必然性を巡る議論を再録しておきます。蓋し、その水脈との接点は、社会思想史上のマルクス主義のデビュー作と言ってよい『共産党宣言』(1848年)自体に既に組み込まれているのではないか。同書の次の記述を読み返す度に私はそう感じています。

これらの(資本主義体制から社会主義体制に移行するための10個程の施策、すなわち、「土地所有制度の廃止」「強度の累進課税」「相続制度の廃止」「通信輸送手段の国家への集中」「すべての人に対する労働の平等な義務化」「教育セクターの活動と産業セクターの活動との結合」等々の、代表的な施策の)発展の進行にともない、階級の区分は消滅し、すべての生産活動が全国レベルで結合された広範な協同体の手の中に集中されてくると、公的権力はその「政治的-権力的」な性格を失うだろう。

・・・而して、諸階級の存在と階級間の対立を内包した古いブルジョア社会に代わって、我々は協同体、すなわち、各人の自由な発展がすべての人の自由な発展の条件となっているような協同体を持つことになるに違いない。

(KABU訳『共産党宣言』第2章末尾, 岩波文庫版,p.69)    


学説史的には、「限界効用」のアイデアを契機に再構築された新古典派(総合の)経済学にマルクス主義経済学は粉砕されたのだけれど、論理的には、マルクスの経済理論は、それが、「労働価値説」という<釣り針>と一緒に英国の古典派経済学を飲み込んだ段階で、要は、その初手の段階から<北斗の拳>だった。而して、社会思想としての左翼の不可能性、左翼が必然的に全体主義、すなわち、強権的な政治システムに逢着せざるを得ない経緯は、上に引用した『共産党宣言』のテクストに既に明らかだったのではないか。蓋し、経済理論のみならずマルクスの社会思想もその初手から<北斗の拳>だったの、鴨。

すなわち、「各人の自由な発展がすべての人の自由な発展の条件となっているような協同体が、しかも、全国レベルで結合された広範な協同体がすべての生産活動をその手の中に集中する」ことと「公的権力はその「政治的-権力的」な性格を失う」ことは矛盾するだろうということです。簡単な話。例えば、「私はそのような協同体には加わりたくない/協同体の意向に従いたくない」という、ヤクザや起業家、出家志望者や分離独立運動家、あるいは、過度な怠け者や過度な働き者はこの協同体の中でどう扱われるのか。

而して、「権力=他者の行動を、実力と公の権威の結合によって左右できる地位や勢力」と定義すれば、左翼の論者が語るように、「権力=支配階級が被支配階級を抑圧する社会的仕組み」であり、よって、「階級がなくなれば階級間対立もなくなり権力も国家も死滅する」という自己論理内完結型の目論見とは異なり、「各人の自由な発展がすべての人の自由な発展の条件となっているような協同体」においても、それら異分子を協同体の意志に従わしめる<権力>は残らざるを得ないだろうということ。蓋し、ソヴィエト・ロシアとは、正に、そのような<権力>が猛威を振るった社会ではなかったのでしょうか。   

けれども、ここで、「社会主義の高次の段階たる共産主義社会では、各人の意向と協同体の意向が異なることはあり得ない」という左翼の論者からの、前提と結論が同語反復的な言い訳が来る、鴨。実際、「共産主義社会ではヤクザはどういう存在なんでしょうか」という質問に対して、有名なマルクス主義の哲学者・廣松渉氏は「共産主義社会にヤクザなんかいるのですかね」と答えられたそうですから(笑)

(*・・)_☆⌒○ ←「言い訳サーブリターン、返し♪」

蓋し、世界同時革命や革命の輸出は考えないとしても、また、天変地異や戦争により協同体が機能不全に陥る事態は無視するとしても、一国規模の人間集団でどのようにしてすべてのメンバーが満足する生産と消費の内容をタイムリーに確定できると言うのか。各人が「自分の希望や状態=自由な発展の目標や成果」と判断するための情報に不足も非対称性も生じないとなぜ言い切れるのか、あるいは、情報を理解する各人の能力差をどう止揚するというのか。

これらテクニカルな問題に加えて、「その希望や状態が自分も含めすべての協同体メンバーの自由な発展であるか否かを、誰がどのような根拠で測定し確定できるというのか」という本質的な問題をこの言い訳は孕んでおり、よって、言い訳は成立しないのです。尚、後者の本質的な問題に関しては取りあえず下記拙稿とその続編をご参照ください。 

・風景が<伝統>に分節される構図(及びこの続編)
 https://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/87aa6b70f00b7bded5b801f2facda5e3


畢竟、ハイエクは『集権的経済計画』(1935年)や『隷属への道』(1944年)そして『自由の条件』(1960年)等々で、「設計主義的合理主義」でしかない社会主義は必ず「強制と計画-計画の強制と強制的な計画」が蔓延る官僚支配の権威主義的社会をもたらすと正確に予想しました。而して、上の『共産党宣言』に内包されている最もプリミティブなジレンマを鑑みれば、「左翼=全体主義」批判は、計画経済と生産手段の国有化を放棄する方向に左翼が変容しているとしても、

それが、①個人に憑依する伝統の価値を軽視して、個人を本質的には「没個性的存在=アトム」として捉え、②政策の決定は、諸政策を巡る賛否の「アトムの量の多寡」に従い行なわれるべきであり、③「アトムの多数派=民意」に従った国家権力は「男を女にし女を男にする以外=物理的に不可能なこと以外」すべてのことができるという世界観を撤回しない限り、(要は、アトムの要望や希望は測定可能であり、かつ、互換性があり共約可能という前提に立った、「プロクルステスの寝台」の如き人間観と政策決定モデルを彼等が放棄しない限り)左翼に当てはまる批判であろうと思います。



◆「真正保守主義」なるものの暴走と失速

英国の法哲学者H.L.Aハートに従えば、法体系は現実の行為規範たる第一次ルールと第一次ルールを認定・改変する第二次ルールの結合体です。ならば、保守派が現下の日本の社会で再構築を期すべき社会規範には(それが法であるか道徳であるかは別にして)、ある歴史的に特殊な伝統と慣習を尊重することを定める第一次ルールに加えて、「何が伝統」かを決める第二次ルールとしての「コミュニケーションの討議のルール」等が含まれることになるでしょう。

畢竟、(そうでなければ、自己の主張の正しさを自己が認定する、「プレーイングマネージャー」ならぬ「プレーイングレフリー」にならざるを得ないがゆえに)この観点を欠落した真正保守主義などは、原理的に左翼と同様の教条主義に陥る危険性を帯びているのではないでしょうか。

ここで、保守主義の第二次ルールの核としての(社会学的に「観察-記述」可能な)「国民の法的確信」の存在形態、および、「法の支配」の原理の意味内容に関しては下記拙稿をご参照いただきたいのですが、

・憲法における「法の支配」の意味と意義
 https://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/5a21de3042809cad3e647884fc415ebe

・憲法とは何か? 古事記と藤原京と憲法 
 https://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/17985ab5a79e9e0e027b764c54620caf

 


えば、「法の支配」の原理とは、(イ)英国社会(あるいは、英国法を継受した、原則、フランス法を継受しているルイジアナ州を除くアメリカ社会)に伝統的なコモンローが存在するという確信と、(ロ)コモンローの具体的内容は専門の裁判所たる裁判官のみが発見できる(要は、コモンロー裁判所がコモンローとして認定したルールがコモンローである)という確信に基礎づけられたものです。而して、(ハ)法解釈学的に見た場合、あるいは、法制史的に見た場合、(国会主権主義が確立する名誉革命(1689年)以前の英国においてさえ)具体的な内容を持つ普遍的なコモンローの豊饒なる体系が存在していたとは言えず、法規範の内容は社会の変遷とともに常に変化してきたことも自明の理なのです。   

ならば、「法の支配」の原理をリファーしつつ、これらの(イ)(ロ)(ハ)を欠く主張、例えば、(イ)現在の日本において、(ロ)有権解釈の権限を掌中にしている裁判所を介在させることなく、私人たるある論者が「コモンロー」と自分で認定した、(ハ)具体的な内容をともなったルールが法的効力を帯びるはずだなどの妄論を述べる「真正保守主義者」などの暴走する心性と思考パターンは、(左翼と同様「没個性的存在」としての均一な人間観を前提とする)独善的な教条主義であり「自分=第二次ルールの認定権者=権力」の万能感を醸し出しているという点で「左翼」のそれとそうあまり変わらないのではないか。蓋し、「真正保守主義」と「左翼」はシャム双生児の関係にある。そう言っても満更間違いではないと思います。

畢竟、このような左翼的な真正保守主義の論者が理解する「左翼」のイメージが、現実の左翼とは似ても似つかない、論者の想像上の産物にすぎなくなることは寧ろ当然のことでしょう。ならば、左翼理解において失速しているこれら真正保守主義なるものは、その保守主義自体の理解に関しても破綻しているのではないのか。蓋し、(ソシュールの記号論を持ち出すまでもなく)あらゆる記号の意味は他のすべての記号との差異性によって形成されるのと同様、ある社会思想の「定義=主張内容」もまた他の全ての社会思想との差異性によってより明確になるでしょう。ならば、「左翼」との対比で保守主義の内容はより明確になるはずであり、その「左翼」の理解が誤謬に満ちたものであれば自己規定も貧困で脆弱なものになることは避けられないだろうからです。

而して、(α)彼等の「左翼」理解が、例えば、支那の(左翼とは中立的な)「偏狭なナショナリズム」としての「中華主義」という認識を曇らせ、あるいは、左翼的ですらない民主党政権の夫婦別姓法案の批判を不的確にすることと通底している以上、または、(β)保守主義をあたかも「魔界からコモンローを口寄せする巫女の技術」の如くに世間に誤解させる可能性がなくもない以上、知識において貧困で論理において脆弱な、「真正」の二文字を背負ったこのような保守派の左翼理解は正しく修正されるべきである。と、そう私は考えています。

尚、本稿を貫徹する私の社会思想の体系に関しては下記拙稿の記事案内をご参照ください。

・社会思想の<海馬之玄関ワールド>観光ガイド、鴨。

-ー自薦記事一覧:保守主義の憲法論と社会思想-憲法の再構築を求めて

 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/5f7bef87927eae129943ca8b5bb16a26

 

 

 

 

 



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