英語と書評 de 海馬之玄関

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NHKの「政治的中立」と首相の人事権(上)

2013年12月07日 10時34分06秒 | 日々感じたこととか


安倍人事一閃。「政治的中立」という<呪文>を隠れ蓑に反日リベラル的の報道を--よって、特定アジア擁護の世論操作を--傍若無人、やりたい放題に垂れ流してきたNHK。周知の如く、内閣法制局長官人事に引き続き安倍晋三総理がこの反日リベラルの一方の牙城を挫く好手を放ちました。

>名人に鬼手なし、すなわち、
>指されてみれば常識的で穏当な一手

要は、政治任用職に関して首相がその人事権を行使しただけのこと。この人事は、しかし、「地味な一歩」だけれどもNHKの正常化に向けて「意味のある一歩」、鴨。名人の放つ好手は往々にして地味だけれど確実に勝利を引き寄せる意味のある一手だから。而して、ならば、この延長線上で--谷川浩司永世名人の<光速の寄せ>の如く--可及的速やかに「政治的中立」の名の下に垂れ流されている<偏向報道>が粉砕されること。そして、漸次、「NHKの分割国営化」が具現されることを私は期待します。

б(≧◇≦)ノ ・・・流石、人事の名手、安倍総理!
б(≧◇≦)ノ ・・・次は、NHKの分割国営化だ!






この安倍人事に対しては、しかし、当然ながら反日リベラルは猛反発している。例えば、私の週間愛読書の『週刊金曜日』は、人事案が国会に提示された時点(2013年10月25日)で、「公共放送人事への露骨な介入で「従軍慰安婦」番組改変が常態化か--安倍晋三首相、NHK経営委員に「お友達」4人を提示」(同誌2013年11月8日(967)号, pp.56-57)というスポーツ新聞張りの大仰なタイトルで批判記事を掲載。そして、国会で人事案が同意された刹那、反日リベラルのもう一方の牙城・朝日新聞はその社説(2013年11月18日)で、このNHK人事を「公正・中立な公共放送への政治介入が疑われかねない」ものとして概略こう批判しています。

▽公共放送 政治では変えられない
これで公正・中立な公共放送が保たれるのだろうか。NHK経営委員に作家の百田尚樹氏ら5人(うち再任1人)を充てる人事が国会の同意をうけ、経営委員会の顔ぶれが変わった。新任の4人は百田氏をはじめ、哲学者の長谷川三千子氏ら、いずれも安倍首相と近い間柄だ。・・・

NHK内部では「これほど首相に近い人物をそろえた露骨な人事は前例がない」と職員らが不安を募らせている。経営委はNHKの経営をチェックするとともに、現場のトップである会長の任命権をもつ。・・・松本正之会長の任期は来年1月で切れる。政権内には、最近のNHK報道が原発やオスプレイの問題で反対の方に偏っているとの不満がくすぶる。そんな折の人事。公共放送への政治介入が疑われかねない。・・・

視聴者が期待するのは、政治に左右されない不偏不党の公共放送だろう。・・・一方、経営委員について、放送法は「公共の福祉に関し公正な判断をすることができ、広い経験と知識を有する者」を、衆参両院の同意を得て首相が任命すると定めている。首相と親しいからといって、よもやその意を体して会長を決めるようなことはあるまい。良識が発揮されると期待する。放送現場や視聴者の支持を抜きにして、公共放送を変えることはできない。(以上、引用終了)



蓋し、この社説の主張は砂上の楼閣と言うべきもの、鴨。なぜならば、この社説の理路は「公正・中立な公共放送が保たれるのだろうか」という問題意識、すなわち、「NHKは現在において公正・中立である」という<密輸>された前提を基盤にしており--「NHKは公正・中立であるべきだ」という規範認識と「NHKは公正・中立である」という事実認識を故意か過失か混同しており--、よって、「NHKは現在において偏向報道を垂れ流している」という認識を持つ論者--それが嘘であれ事実であれ、現在のNHKに批判的な認識を持つ論者--にとっては単なるインクの紙魚の集積にすぎないからです。

冒頭で旗幟を鮮明にした通り、「原発やオスプレイの問題」のみならず、例えば、「特定秘密保護法」や「憲法96条の改正」、もしくは、「集団的自衛権」や「国政選挙の一票の価値」、または、「安倍総理の歴史認識」や「閣僚の靖国神社参拝」、あるいは、「婚外子の遺産相続」や「外国人の地方参政権」の諸問題を取り上げたその報道を見聞きするだけでも、私自身はNHKは現在において偏向報道を垂れ流していると確信しています。

本稿は、しかし、NHKは「公正・中立」か、あるいは、「偏向報道の巣窟」なのかという事実認識そのものではなく、そのような事実認識の前哨として--「政治任命権者の人事権」という契機を軸に--「政治的中立」ということの意味を検討するものです。「政治的中立とはどのようなことなのか」および「政治的中立なるものはそもそも実現可能なのか」。これらのことを考えてみたいと思います。 





(Ⅰ)「政治的中立」の形式的意味
朝日新聞の社説に含まれる諸言辞、「公正・中立」「不偏不党」「政治では変えられない」「政治介入が疑われかねない」「政治に左右されない」を鑑みるに、朝日新聞にとって、公正・中立なNHKとは--すなわち、NHKが政治的に中立であることとは--、おそらく、①報道内容と組織運営の両局面で、②ある特定の国内の政治勢力、就中、政府与党との間で、③NHKが実質的にせよ指示を受けたり、逆に、NHKが実質的にせよ支援を供したりする関係にはないということでしょう。そう私は想像します。

>「政治的中立」のPrototype定義
①NHKの報道内容と組織運営の両局面で
②特定の国内の政治勢力、就中、政府与党との間で
③実質的にせよ指示を受けたり、逆に、実質的にせよ支援を供したり
する関係にNHKがないこと


なぜならば、NHKといえども「政治そのもの:something political」--すなわち、「権力:power」を「公的な権威を帯びつつ他者の行動を主導的かつ強制的に左右できる地位」と定義する場合、そのような「権力の分配構造、および、権力の分配と行使の全過程」と定義される事象--から無縁でも中立でもあり得るはずもないから。ならば、朝日新聞が社説で述べている「政治」とは、衆参両院で議席の過半を占め政権獲得を目指す国内の政治勢力、なにより、時の政府与党というかなり狭い意味に解するしかないだろうからです。

>政治:権力の分配構造、および、その分配と行使の全プロセス
>権力:他者の行動を主導的かつ強制的に左右できる公的な権威





もし、①~③の理解が満更私の曲解ではないとするならば、「NHKは政治的に公正・中立」と看做す朝日新聞の認識は--その言説の<図と地>を反転させることによって--「政治的中立」そのものの意味を考察する上で幾らか参考になる、鴨です。

具体的には、皇居を挟んだ反日リベラルの東西の牙城である朝日新聞が「NHKは結果的にせよ世論操作などすべきではない」などとはこれっぽっちも考えていないことは確実でしょうから、逆に、「政治的中立」そのものの意味理解には、少なくとも、④日本の社会と国民世論、⑤NHKの政治的影響力、ならびに、⑥NHKが当事者か非当事者かを決定するルール、⑦NHKの非当事者性、この④~⑦の4個の要素をも併せて考えなければならないのではないか。この経緯が了解できるということ。

そして、「NHKは政治的に中立であるべきだ」という規範認識、および、「NHKは政治的に中立であるか否か」の事実認識の判定基準も④~⑦から演繹されると思います。以下、対象一般化の<補助線>を用いて敷衍します。

NHKを巡る事象から考察の射程を一般的な組織にまで拡大するとき、「政治的中立」Prototype定義、および、④~⑦は各々次のようにリライトできる。要は、④~⑦は「政治的中立」Prototype定義の妥当性の条件に他ならないということ。加之、NHKは自動的に<中立な観察者>などになるわけではなく、また、その「中立」の意味内容も経営委員会を通して間接的に時々の首相が決めることなのです。

>「政治的中立」のGeneral type定義
①プレーヤーがその権限内で行う、個々の行動選択、および、行動選択システム構築に関する戦略選択の両面で
②プレーヤーの判断に容喙する権限がないか、逆に、プレーヤーがその相手の判断に容喙する権限がない、しかし、いずれにせよ、プレーヤーに権限を付与するのと同じ公的権威を分有する他のプレーヤー、就中、当該の最高権威との間で
③実質的にせよ指示を受けたり、逆に、実質的にせよ支援を供したりする関係にないこと

>朝日新聞的の「政治的中立」を<反転>して抽出した4要素
④閉じた政治社会の存在
⑤政治的影響力の保有
⑥当事者適格を定めるルール
⑦非当事者性






蓋し、「政治的中立」Prototype定義の妥当性は、④ある単一の政治社会において、⑤政治的影響力を保有している組織が、⑥政治を巡るあるゲームに関して「誰が当事者であり誰が当事者ではないか」を決定するルールに基づき、⑦非当事者と判定されている場合に限り--かつ、その当該の組織がその<非当事者の定義域>に行動を制約している場合に限り--成立する。と、そう私は考えます。

⑥⑦がある組織が「政治的に中立であるか否か」の事実認識の判定基準の源泉であり、他方、「政治的に中立であるべきだ」という規範認識は④⑤から--影響力に見合う国家と国民に対する<責任>として--紡ぎ出される、とも。


ならば、例えば、「政治任命権者の人事権」とは、「政治任用者:political appointee」が着任することになる当該の組織にとっては、⑥当事者適格を定めるルールの一斑であり--なぜならば、任命権者の「政治任用の裁量」に当該の組織は容喙する権限がないのですから--、よって、政治任命権者の人事権の行使に関して、もし、⑦当該の組織が政治的行動を取るとすればその組織は当事者となってしまいその行動は<政治的中立>に反することになる。

すなわち、①~③を内容とする「政治的中立」を根拠に政治任命権者の人事権の行使を批判することは論理的に不可能ということです。逆に言えば、「政治任命権者の人事権」の行使は、①権限内の戦略選択ではなく、また、それは②プレーヤーの判断に容喙する権限のある他のプレーヤーがする正当な裁量行為にすぎない。

そして、同語反復になりますが、「政治任命権者の人事権」の行使は<政治>の決断である以上、彼女や彼が、自身の<政治目的>を効率的よく達成する上でそれが合理的な戦略選択と判断した以上、自身の「お友達」を「政治任用者」として指名することは--オバマ大統領がその有力支援者のケネディー女史を駐日大使に任命した如く--寧ろ、当然のことであり、なんら批判される筋合いはないのです。


畢竟、再々になりますけれども、NHKの政治的中立性に疑問符がつけられている現下の日本の政治状況では、朝日新聞の社説の如き「NHK性善説」の立場から--要は、④~⑦を看過した上で--なされる安倍人事への批判は砂上の楼閣にすぎないだけでなく、NHKの政治的中立性--「NHKが公正・中立」であるか、あるいは、「NHKは偏向報道の巣窟」であるか--の事実認識に関わらず、安倍人事は、土台、NHKを巡る「政治的中立」Prototype定義とは論理的に無関係な事柄。ならば、安倍人事の政治的な妥当性の是非は、日本の実定法秩序の内容を検討するなかで--④~⑦の内容を具体的に検討するなかで--判定されるしかない問題であろう。よって、次節では「政治的中立」ということの意味をこの切り口から更に検討したいと思います。

而して、次節を貫くモティーフは、「無条件に認められる「政治的中立」などこの世に存在しない」というピラト(Pilatus)的な、しかし、常識的で穏当な認識です。「鳥の翼がいかに完全な構造物であるとしても、真空の中では鳥の羽ばたきも空疎なものに終わろう」というパブロフの箴言とそのモティーフは通底している、鴨です。






<続く>




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