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ウォーキング de 我が街「新百合ヶ丘」:岡上地区-完全包囲編(参)

2009年09月30日 05時38分16秒 | 徒然日記


小田急柿生駅を出撃して約45分。「現在地点」は岡上西町の和光大学の近傍です。今までの散策で岡上地区の西半分を包囲しつつあり、これから西南の角を締め、東辺の包囲に向かいます。例によって、<地図画像>を適宜参照いただければ記事はわかりやすいと思います。



【地図画像】
・岡上地区包囲Map

 http://www31.ocn.ne.jp/~matsuo2000/shinyurimap13a.jpg

・あさおウォーキングマップ
 http://www.city.kawasaki.jp/73/73hohuku/kenko/kenko/sonota/pdf/02_map.pdf








記事Topと上の画像は和光大学の入り口とその周辺です。どこぞの国の課税管轄配分規定のように「玄関」のある位置でその家の行政管轄を決めるとすれば、和光大学は間違いなく「岡上っ子」。

実際、和光大学の図書館は麻生区民の利用を歓迎するなど、和光大学は我が街「新百合ヶ丘」のメンバーであり地元に貢献してくれているのですよぉー。

・和光大学
 http://www.wako.ac.jp/

下の1枚目の画像は、その和光大学の対面、岡上の尾根道に続く岡上西町の住居表示。「7番坂」とは、新宿方面から来る下りの小田急線が90度左折している岡上西町の「序の口」から数えて7番目の登り坂という意味。私達もそろそろ尾根道に上がります。で、何番でもいいのですが、和光大学の玄関近辺(vestibule area)からは「8番-9番」がお薦め、鴨。2枚目が、朝靄を残暑の陽光が射すその「8番坂」。かなり急な坂道です。















尾根道までもう一息という所にある路上ステッカー(?)。これは「自動車はこの先には行けません」という意味でウォーカーには無関係。上の2枚目の画像はその尾根道です。そして、下の画像は、尾根道から撮影した和光大学の雄姿、および、(岡上地区の西南角を締めるべく)これから進む尾根道の風情。













「8番坂」を登り始めて6-7分。視界が一旦開けます。上の画像の画面中央の森は、全国の良い子達とそのお母さん達にその名が轟く「こどもの国」の遠景。そう、そこは横浜市青葉区です。

・こどもの国
 http://www.kodomonokuni.org/index.html

下の1枚目の画像はそこから岡上西町方向を振り返ったもの。画像画面の左手の道が今来た経路。で、本当は、画面右手の道を進むのが本線の順路なのです。けれど、ここはわざと「I have got lost.」の振りをして(?)、脇道散策に向かいます。2枚目の画像がその脇道。ここら辺りからは尾根は川崎市麻生区と横浜市青葉区の市境になっています。









ところで、なんで岡上地区は麻生区の飛び地なの?

ななパンダさんいい質問ですね(←勝手に質問者を想定している!)。

はい。それには深い訳があるのです。地下50メートルとは言わないが、究極的には、武蔵国が東山道(諸国)から東海道(諸国)に所属替えになる奈良時代の宝亀2年(771年)にまで話は遡りますが、決定的な事件は、


①明治26年(1893年)に三多摩地区を神奈川県から東京都(当時、「東京府」)に移管する決議が帝国議会で可決成立したこと

②昭和14年(1939年)に都筑郡を構成していた12ヵ村の中(柿生村と岡上村を除いた)10ヵ村が横浜市に、そして、我等が柿生村と岡上村が川崎市に編入されたこと
    


この二つの出来事に「飛び地=岡上」は由来しています。敷衍します。

現在の町田市、よって、当時の鶴川村を含む三多摩地区は、廃藩置県・版籍奉還(明治2年・明治4年:1869年・1871年)以降、明治半ばまで神奈川県に属していました。時々、「昔は、長野県は松本県(=「筑摩県」)と旧長野県が合併してできた」とか「昔は、奈良県は旧大阪府の一部だった」とか言う人がおられますが、「新長野県=旧長野県+筑摩県」「新大阪府=旧大阪府-奈良県」はそれぞれ明治9年と明治20年のこと(ちなみに、奈良県は、明治9年に堺県と合併した上に、明治14年にその堺県自体が大阪府に併合され、独立が達成される明治20年まで「バビロン捕囚」の日々だったのです)。

何を言いたいかと言えば、県の離合集散が頻繁に行なわれたのは、明治9年から明治11年の府県大規模合併の時期から、逆に、分割運動が盛り返した市制・町村制の施行と府県制・郡制の制定の時期(明治22年・明治23年)までに限られるということ。実際、明治23年(1890年)以降、平成21年(2009年)の現在に至るまで都道府県単位の合併は皆無であり、また、飛び地の整理や境界エリアの市町村の所属替えを超えた「分割」といってよい事態も皆無。畢竟、明治26年に行なわれた三多摩地区の所属変更は極めて例外的な<事件>なのです。

尚、明治22年(1889年)の町村制の施行によって、能ヶ谷・大蔵・野津田・三輪・真光寺等の各村が合併し鶴川村ができ、昭和33年(1958年)町田町(←上から読んでも「まちだまち」下から読んでも「まちだまち」!)と鶴川村等が対等合併して町田市になりました。他方、我等が柿生村は、同じ明治22年、上麻生村・下麻生村・早野村・王禅寺村・古沢村・万福寺村・片平村・五力田村・栗木村・黒川村が合併してできたもので、他方、岡上村はその後(大正2年)、柿生村との間で「組合村」を形成するも、昭和14年に川崎市に編入されるまで独立の孤高を保ったのでした。
   


もう一つエピソード紹介。この明治26年の三多摩地区の所属替えに関しては当時の政局にからめてこれを説明する論者もおられます。すなわち、自由民権運動の発祥地の一つであり、板垣退助率いる自由党の金城湯池であった三多摩地区を神奈川県から切り離すことで、神奈川県政界の自由党支配を終らせ、(三多摩地区の票が増えた所で東京では自由党はone of them なのだから、ひいては)日本政界における自由党の影響力を削ごうとした大隈重信率いる改進党や藩閥政府の意向が三多摩地区の所属替えを具現した、と。

ただ、明治17年(1884年)に一旦解党した(第一次)自由党が、明治22年(1889年)の旧憲法の発布を受け、板垣翁を一つの中心に再結成するのがこの明治26年-27年(1890年-1891年)のことであり、三多摩地区の所属変更を、専ら現在の民主党の<小澤一郎的政局戦術>の帰結と見てよいかどうかに関して私は少し疑問があります。閑話休題。


現在の麻生区は、明治22年(1889年)の区割りで言えば、都筑郡の一部(柿生村+岡上村)と橘樹郡の一部(生田村のそのまた一部)で構成されています。而して、岡上地区が町田市と接している理由(逆に言えば、東京都に吸収されなかった理由)はシンプル。要は、鶴川村は三多摩地区に属していたが、岡上村も柿生村も都筑郡を構成するメンバーであり三多摩地区ではなかったから、と。

而して、残る問題は、「ではなぜ、岡上地区の東南側は青葉区に接しているのか(逆に言えば、横浜市に吸収されなかった理由は何か)」です。麻生区の飛び地としての岡上地区は「前門の狼、後門の虎」よろしく「菱形状のその区画の三辺を東京都町田市に、他の一辺を横浜市青葉区に囲まれ」ている。なぜこんな事態になったのか? 

実は、この問題を解く鍵は「政友会」であり、更には、「津久井道」と「鶴川街道」。ひいては『資本論』であると私は睨んでいます。ただ、詳細は割愛させていただき、ここでは、


柿生村は、(岡上村を除く)都筑郡の他の10ヵ村よりも「津久井道」と「鶴川街道」が結びつけてきた旧橘樹郡の村々との結びつきが強かった。岡上村は都筑郡の他の10ヵ村全部と比べても柿生村との結びつきが強かったから。要は、岡上村と柿生村は仲良しだった!
    


という仮説だけを記して先に進みたいと思います。










今までの「道案内」の鬱憤を晴らすかのように、薀蓄を撒き散らしつつ「脇道」を直進すること7-8分。なにやら、民家とは思えない建物群が見えてきました。これは何か? 

はい。ここから先は玉川学園の敷地なのです。上の画像は農学部の施設。更に、4-5分進むと、玉川大学の教室棟が散在するようになり、ついに、今歩いている尾根道がキャンパスのメインストリーに合流していく。正に、「すべての道はローマに通ず」ではないけれど、岡上の尾根道は間違いなく玉川大学に続いていたのです。

・玉川大学
 http://www.tamagawa.jp/





そして、何より岡上地区が凄いのは、上の2枚目の画像に写っているあたりくらいまではまだギリギリ麻生区ということ。この画像のあたりは「麻生区=岡上地区」と町田市と青葉区が鼎立しながら接しているのですよぉー。







と、ここらで本線経路に引き返しましょう。而して、

和光大学方面から尾根道を辿って最初に遭遇した玉川大学の施設のこと。

そう、

農学部の施設があるということは、はい、岡上から続く尾根道では、
こんな子達も会えるのらぁー♪



そして、

この三勢力の鼎立が火花を散らす岡上の尾根道では、少しはにかんでいたけれど、
こんなハンサムな子にも会えるのらぁー!




というところで、適度な長さなので次回に続きます(;・ω・;)。



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