英語と書評 de 海馬之玄関

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地震と政治-柘榴としての国家と玉葱としての国民(下)

2011年03月24日 12時59分10秒 | 日々感じたこととか


◆玉葱としての国民

前節の考察を受けて「柘榴としての国家」という表象を前提とするとき、この柘榴としての国家を<ゲームの舞台>とする<政治>はどのような本性を帯びているのでしょうか。国民を自然の猛威やグローバル化の波濤から守ることのできる政権とはどのような政権なのか。近代の「主権国家-国民国家」における<政治>のあるべきあり方を考えるため、<国民>の概念を吟味検討することで考察を続けていきたいと思います。

なぜならば、国家が「柘榴としての国家=自然と政治との両義的存在である疎外体」である限り、すなわち、ホッブスの語る如く「国家=可死の神」(自然に比べれば有限ではあるが、人間世界では自然と同一視可能な万能の存在)である限り、また、その国民を自然から守護するある国家やある政権のパフォーマンスが社会統合のスキルに収斂するのであれば、そのパフォーマンスの度合は国民からの自発的な支持をその国家や政権がどれほどのコストパフォーマンスで調達できるかと同値でしょう。ならば、あるべき<政治>のあり方は、(日本や英米の如き民主主義国であれ、支那や北朝鮮の如き独裁国においてであれ)そのような自発的な支持を国家や政権にいかほどかは与えている<国民>の本性を一瞥しない限り明瞭にはならないだろうからです。尚、この点の裏面とも言うべき、社会統合の制度としてのデモクラシーに関しては下記拙稿をご参照ください。而して、まずは前節の主張の整理。


・民主主義とはなんじゃらほい
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/65344550.html

・民主主義--「民主主義」の顕教的意味
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/65226712.html

・民主主義--「民主主義」の密教的意味
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/65226739.html

そして、なによりも、是非、以下の2稿を。

・民主主義の意味と限界-脱原発論と原発論の脱構築
 http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11138964915.html

・放射能と国家-脱原発論は<権力の万能感>と戯れる、民主主義の敵である
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/fd01017dc60f3ef702569bbf8d2134d2



(甲)国家は疎外体である
・国家は、国民の観念の産物、すなわち、国民の共同的な観念形象にすぎない
・国家は、(間主観的な諸作品の形成する世界、すなわち、カール・ポパーの言う「世界Ⅲ」にその場を占めており)個々の人間の願望や意図を離れた独自の運動法則性を持っている。要は、例えば、物価や為替の変動、あるいは、言語や性の規範と同様に、それが人間の観念の産物であるとしても、それが疎外体として成立している以上、最早、個々の人間の意図や願望からは離脱している存在である。よって、疎外体としての国家は、ある意味、自然の一部とも言える

(乙)国家における社会統合は与件でも自然的でもない
・近代の「主権国家=国民国家」は、歴史的に特殊な存在であるだけでなく、個々人の心性と価値観の最深部にある宗教・信仰を捨象する極めて人為的で人間にとって非自然的な存在である。畢竟、近代以降、現在の人間存在は、(a)人間のコントロールを離脱しているという意味では自然の一部である、しかし、(b)人間の本性に反しているという点では非自然的な国家と共存する運命を課せられている。サルトルは「人間は自由という刑罰に処せられている」と述べたが、蓋し、近代以降の人間は「自然的で非自然的な国家との共存という刑罰に処せられている」の、鴨。而して、アリストテーレースが喝破した如く「人間は「ポリス的=社会的&政治的」存在」であるとするならば、この類の刑罰は、実は、近代以前から、否、アダムとイブの失楽園以来のく<人類の終身刑>なの、鴨
・国家が人間にとって非自然的な存在でもある以上、国家社会における社会統合は予定調和的に具現する与件でもない。而して、<政治>の役割のαでありωは、この社会統合を可能な限り高いコストパフォーマンスで実現すること。国民からの自発的な支持を廉価に集めて社会に安寧秩序を具現することである、と。   


前節の考察をこう整理するとき、国家を産み出し、国家に制約され、そして、国家権力や政権に支配の正当性と正統性を付与する国民とはどのような存在として理解すればよいのか。再々になりますが、ゲルナーのナショナリズム論、あるいは、フランスのアナール学派やドイツの社会史流の歴史叙述を紐解くまでもなく、近代の「主権国家=国民国家」は極めて歴史的に特殊な産物です。人口に膾炙している如く、フランス革命以前にはフランス人などはこの世に存在しなかった。この点に関して私は旧稿で概略このように述べたことがあります。

民族も国民も国家もフィクションである。それは日本においては、歴史と文化と伝統を基底にした<皇孫統べる豊葦原瑞穂之国>という国家の成立と来歴の物語を中核として、そのような国家の一員としてのアイデンティティーとプライドを国民に供給するフィクションである。

畢竟、神武天皇の建国から万世一系の皇孫が統べる日本の国家イメージの妥当性は歴史的事実とは無縁である(要は、それが事実かどうかなどは国家の正当性と正統性の基礎づけにおいてはどうでもよいことである)。しかし、フィクションにすぎないとはいえ、皇孫統べる豊葦原瑞穂之国という理念は国民を国家に統合する機能を果たし、かつ、日本の独立と安全、個人の尊厳と個人の生存を国家が保障することを可能にする制度インフラに他ならない。

喩えれば、国家のフィクションは演劇の脚本と言える。演じるにせよ鑑賞するにせよその演劇に参加する者はその演劇のストーリーを認めなければならないという意味で国家のフィクションは脚本である。而して、その演劇が上演されている国家の内部においてその脚本や演出は唯一無比のものである。再度記す。(国家のフィクションは現実の歴史的事実をいかほどかは踏まえることが一般的とはいえ)国家の神話の正当性はなんら歴史的事実に拘束されるものではない。史実の吉良上野介は名君であったとしても仮名手本忠臣蔵の演劇空間では高師直(≒吉良上野介)は極悪人でなければならないことを想起されたい。

プラハで生まれカリフォールニアで没した、20世紀最高の法学者の一人、ハンス・ケルゼンは、国家をも含むこのようないわば演劇空間を、価値や評価の帰属点として整理した。帰属点(Zurechnungspunkt)とは実体的な存在ではない。それはある価値や評価が結びつけられ帰属する思考の対象として人間の観念の中にのみ存在する。

例えば、サッカーワールドカップのゲームで、柳沢敦が得点しても大黒将志が得点しても、「日本代表」に1点が記録され、彼等の活躍により日本が勝利すれば「日本代表」は勝点3を得る。しかし、私は当時のベルマーレ平塚の練習場で中田英寿を、宮本恒靖を同志社大学の学食で見かけたことはあるが「サッカー日本代表」には触ることはもちろん目で見ることもできはしない。蓋し、「サッカー日本代表」とは、サッカーのルールとサッカーの伝統と文化と慣習が意味的世界に作り上げた所の評価・価値・意味(得点や勝点)の帰属点である。それは主観的個人的なものではなく、間主観的で社会的、かつ、公共的な性格を帯びている。そして、日本という国家もこの世に無数にあるこのような帰属点の一つにすぎない。

国家は帰属点にすぎない。それはその国民から見た場合、喩えればサッカーや野球のゲームに参加する際のチームやチームのユニフォームと理解できようか。特に、そのチームに所属することやそのチームのユニフォームに必然性はないにしても、対内的には最高で対外的には独立を属性とする主権国家が割拠する国際社会において、ある個人がその生存を確保し、よりよく自己を実現しようと思うならば何らかのユニフォームを着用することがマストになるということだ。蓋し、ユニフォームを着用しないことは「You can, but you may not」なのである。(自家記事引用終了)    


国家も国民も民族も「擬制=フィクション」に過ぎない。けれども、それらもまたカール・ポパーの言う意味での「世界Ⅲ」、間主観的な諸作品の形成する世界にその場を占めている存在であるということ。また、ヘーゲルやマルクスが見出した如く、それらは疎外体であり、人間の観念表象でありながらも人間の認識と行動を制約する存在であるということです。畢竟、柘榴としての国家もその<国民>もまた、この意味でも、人為と自然との両義的存在であると言えるのだと思います。




人間の本性は玉葱である。何を私は言いたいのか。例えば、ある女性は、娘であり母であり、妻であり愛人であるかもしれない。また、彼女は小学校のPTAの役員であり近隣の絵画サークルのメンバー、そして、旧家出身で高学歴の上流階級に属する人であり、同時にコンビニのレジのパートのおばちゃんでもあり得るでしょう。では、何が彼女の「本性」なのか。

蓋し、彼女の本性とは、妻や母等々のそれら諸々の規定性の連関以外には存在しない。畢竟、玉葱の皮としてのそれら個々の規定性を一枚一枚剥ぎ取るとき最後には何も残らない類の、玉葱としての諸規定性の連関の総体こそが彼女に他ならない。と、そう私は考えています。而して、ある国家の正規の構成員であるという規定性、すなわち、国民であるという規定性もまた人間を形成するそんな玉葱の皮の一枚にすぎないとも。例えば、アガサ・クリスティーの『リスタデール卿の謎:The Listerdale Mystery』(1934年)には、没落した上流階級のヴィンセント夫人が登場しますが、私は、クリスティーが描くヴィンセント夫人像こそ人間の本性、玉葱としての人間という経緯の最も分かりやすい言語表現ではなかろうかと思います。

而して、このように、多様な規定性の連関の総体として人間を理解するとき、ある国家やある政権の徳の核心、すなわち、社会統合スキル、よって、自然に対する危機管理能力は、その政権や国家が玉葱としての国民に「国民」としての規定性をいかに上手に受け入れさせることができるかどうかと同値である。些か、同語反復的な言説ですが私はそう確信しています。

そして、21世紀前半に生きる人間存在にとって、「地球市民」なり「世界国家」なる表象が決定的にリアリティーを欠如している現下の状況を直視するとき、また、例えば、ハーバマスの語る「憲法愛国論=伝統とは無縁な合理的支配を保障する憲法に従い運用されている限り、国家にモラルサポートを与えるべきだ/与えても国家権力による人権蹂躙の危惧はミニマムにできるという主張」の書生論性が、(国家権力をも凌駕する国際テロネットワークの成立やリーマンショックでも明らかな如く)グローバル化がその獰猛性を一層顕著にしている現在、そして、東日本大震災に際して、国家の無力と無能な政権の有害さが露呈している現在、「国民」という規定性を個々の国民と折り合いをつけさせ得る社会統合スキルは、民族の伝統と文化の延長線上に<国民>概念を想定する保守主義的なもの以外には見当たらないとも。実際、元来、「憲法愛国論」と親和性の高かったアメリカでも、建国200年を経過する中で、その「合理的でエスニシティー的に価値中立的な憲法」はアメリカの伝統文化の一斑としてアメリカ市民のアイデンティティーの結節軸の一つになっているのですから。

東日本大震災を契機に(強請りたかりが得意なある県を除けば)、日本人間の連帯が日に日に強化されつつある現在、そして、(それが、合法的な政権であれば、その政権に対する国民の支持は与件であると)いまだに機械論的な国家権力認識を引きずっているとしか思えない現下の民主党政権の凄まじい能力不足が露呈するにつれて、国家社会統合のスキル、すなわち、国家と政権の徳の核心は保守主義的な国民統合イデオロギーを排除しては機能しないのではないか。地震を大震災にすることのない政権、よって、国民を自然の猛威やグローバル化の波濤から守ることのできる政権とは保守政権に他ならないのではないか、と。このような認識を一層深めているところです。



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